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Person / 人

ドミトリー・ドンスコイ

Dmitry Donskoy
AD1350年10月12日 – AD1389年5月19日(享年38)
キエフ・ルーシ重要度 4

概要

9歳でモスクワ大公。クレムリンを石の壁にし、諸公をまとめ、クリコヴォでモンゴルを破って「ドン川の」と呼ばれた。二年後に都を焼かれたが、汗の許しなしに大公位を息子に譲った。聖人。

所属

キエフ・ルーシ

関わったできごと(1)

クリコヴォの戦いAD1380年9月8日 · 大公

本文

ドミトリー・イワノヴィチ。 1350年10月12日、モスクワ。 イワン2世「柔和公」の子。 祖父イワン1世「カリタ」(金袋)。 ハンの徴税を請け負って、 モスクワを太らせた。 1359年、父が死んだ。 9歳。 府主教アレクシー。 摂政。 「アレクシーが、 モスクワを、 少年のために守った」。 1362年、 サライから大公の許可状(ヤルルィク)。 金で。 スーズダリのドミトリーと争って。 12歳。 1366年、 そのスーズダリのドミトリーの娘エフドキヤと結婚。 16歳と13歳。 12人の子。

1367年、 石のクレムリン。 白い石。 「ベロカーメンナヤ」。 「白石のモスクワ」。 2年。 1368年11月、 アルギルダス。 3日、壁の外。 帰った。 1370年12月、 また。 8日。 帰った。 1372年、 また。 講和。 1371年、 トヴェリのミハイルがヤルルィクを得た。 ドミトリーは、 サライへ行って、 ママイに金を払って、 取り戻した。 1375年、 トヴェリ。 1か月の包囲。 「弟」として。 1376年、 ヴォルガ・ブルガール。 1377年、 ピヤナ川。 「酔った川」。 ルーシ軍が酒を飲んで、 タタールに襲われた。 1378年、 ヴォジャ。 1380年、 クリコヴォ。 1382年、 トクタミシュ。 「ハンが自ら来た」。 戦えなかった。 コストロマへ。 「兵を集めに」。 モスクワは3日守って、 「ハンは慈悲深い」という言葉を信じて門を開け、 焼かれた。 2万4000人。 「私の街を、 私は守れなかった」。 貢納を再開した。 息子ワシーリーを人質に。 1386年、 ワシーリーは逃げた。 リトアニア経由で。 ヴィタウタスの娘ソフィアと婚約。 1389年5月19日。 38歳。 遺言。 「ウラジーミル大公国は、 私の世襲領(オートチナ)」。 ハンの許可なしに。 「私の息子たちは、 互いに争うな」。 争った。 孫の代で。

「ドンスコイ」は、 15世紀の年代記から。 1988年6月、 ロシア正教会の地方公会議。 「千年祭」。 ルーシの受洗1000年。 聖人に。 「信仰の守護者」。 アレクサンドル・ネフスキーと並ぶ。 モスクワの南のドンスコイ修道院。 1591年。 ドンの聖母のイコン。 クリコヴォで持っていた、と伝える。 1941年12月、 モスクワの前線。 「ドミトリー・ドンスコイ」。 戦車大隊。 正教会が集めた金で。 40両のT-34。 教会と国家が、 再び。