概要
4歳で即位し、祖母の馮太后が23歳まで政治を執った。自分で執ってから10年で、都を移し、言葉と服と姓を漢のものに変え、鮮卑と漢の貴族を結婚させた。33歳で死んだ。鮮卑の兵はこれを恨み、25年後に反乱して北魏を割った。
本文
拓跋宏。 北魏の第七代。 父の献文帝が18歳のとき生まれ、 生母の李夫人は、皇太子の母は殺す、という拓跋の慣例で殺された。 「子貴母死」。 父も5年後に退位させられ、 祖母の馮太后が毒殺した、と伝わる。
馮太后。 北燕の王族の娘で、漢人。 471年から490年まで、 孝文帝の名で政治を執った。 三長制(村の組織)、均田制(土地の配分)、俸禄制(役人の給料)。 北魏を国家にした改革は、この人のもの。 孝文帝はそれを見て育った。 太后は彼を寒い部屋に閉じ込め、 三日食事を与えず、 廃そうとして、止められた。 彼は恨まなかった、と『魏書』は書く。 太后が死んで、5日食べず、 三年の喪を守ろうとして止められた。
490年から自分で執った。 儒教の礼を朝廷に入れ、 祭祀を漢の形にし、 南斉の礼を使者に写させた。 493年、遷都。 それから5年で、 言葉、服、姓、墓、婚姻。
495年、太学と国子学と四門学を洛陽に置いた。 洛陽に伽藍が建ち始め、 龍門を掘り始めた。
497年、南征。498年、南征。 499年、南征の途中で病んだ。 遺詔で、皇后馮氏(太后の姪)が不義をしたとして、死を賜った。 息子の宣武帝は16歳。 33歳で死んだ。 諡は孝文。
『魏書』の評。 「雄才大略、その心は漢の武帝、唐の太宗に劣らない」。 陳寅恪は、 隋唐の制度は北魏から北斉を経て来た、と書いた。 北魏の洛陽は、 30年後に爾朱栄が来て、河陰で朝廷の官人2000人を殺し、 それから焼かれた。 『洛陽伽藍記』が、その廃墟を見て書かれた。