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Person / 人

顕如

Kennyo
AD1543年2月20日 – AD1592年12月27日(享年49)
本願寺重要度 4

概要

本願寺11世。12歳で継いだ。石山本願寺で信長と10年戦った。全国の門徒を動かし、毛利、武田、上杉、朝倉、浅井と組んだ。1580年、天皇の仲介で退去。長男教如は退去を拒んで信長と戦い続け、顕如は教如を勘当した。秀吉が京都に土地をくれて、本願寺。死後、教如が東本願寺を作って、東西に割れた。

関わったできごと(1)

石山合戦AD1570年(元亀元年) · 立った

本文

1543年、石山本願寺。証如の長男。光佐。1554年、12歳で本願寺11世。妻は三条公頼の娘で、武田信玄の妻の妹。

本願寺は蓮如のとき(15世紀)に教団として巨大になり、加賀を一向一揆が100年支配し、各地の門徒が武装していた。石山は寺内町で、堀と土塁を持ち、堺と並ぶ都市だった。信長が来る前、本願寺は朝廷から門跡の位を得て、公家の一つだった。

1570年、信長が石山の明け渡しを求めた。9月、顕如は全国に檄を出した。「信長は仏敵。立て。立たない者は門徒ではない」。石山合戦。10年。長島、越前で門徒が何万人も殺された。1580年、和睦。顕如は紀伊の鷺森へ。息子教如は「父は騙されている」と言って城を出ず、8月、出た。顕如は教如を義絶した。

秀吉が1591年、京の六条に土地を与えた。本願寺。1592年、顕如が死んだ。50歳。教如が継いだが、秀吉が顕如の妻(如春尼)の訴えで弟の准如に継がせた(顕如の遺言だと言う)。1602年、家康が教如に烏丸七条の土地を与え、東本願寺。西(准如、本願寺派)と東(教如、大谷派)。家康が本願寺を割った、と言われる。分かれたまま、いまも。

顕如は、戦国大名に匹敵する軍事力を持ち、10年信長と戦い、負けなかった唯一の人だった。信長は負けて、天皇の仲介で退去させた。宗教が国家に対抗した最後で、その後の日本の仏教は、二度と武装しなかった。