概要
642年、王と大臣百余人を殺して権力を取り、唐の太宗の親征を安市城ではね返した。五本の刀を帯びて歩き、人を踏み台にして馬に乗ったと唐の記録は言う。死ぬと三人の息子が争い、二年で国が滅んだ。
本文
『三国史記』では泉蓋蘇文。 唐の高祖李淵の諱を避けて、淵を泉に。 姓は淵、名は蓋蘇文、 あるいは蓋金。 「水の中から生まれた」と自分で言った、と『三国史記』は書く。 「儀表雄偉、意気豪逸」。
父は東部大人、大対盧。 父が死んで跡を継ぐとき、 人々が彼の性格を恐れて反対した。 頭を下げて謝り、 「悪ければやめさせてくれ」と言って、継いだ。
642年、栄留王と大臣たちが彼を除こうとした。 彼はそれを知って、 軍の閲兵と称して大臣たちを招き、 100余人を殺した。 宮に入り、王を殺し、 遺体を溝に捨てた。 王の甥の宝蔵王を立て、 莫離支を名乗った。 「唐の兵部尚書と中書令を合わせたようなもの」と『旧唐書』。
643年、唐に道教の道士を求め、 唐の太宗が8人を送った。 644年、太宗が新羅への攻撃をやめるよう使者を送り、 蓋蘇文は「新羅が隋の時に我々の500里を取った。返さない限りやめない」。 使者を獄に入れた。
645年、太宗の親征。 遼東城、白巌城、 安市城で止まった。 88日。 太宗は退いた。 「魏徴が生きていれば止めただろう」。 647年、648年、また来た。 太宗は死の床で高句麗遠征をやめるよう遺言した。
『日本書紀』は「伊梨柯須弥」と書き、 「大臣伊梨柯須弥、大王を殺し、伊梨渠世斯ら180余人を殺した」。 唐の側の記録。 「五本の刀を身につけ、 左右の者が敢えて仰ぎ見ない。 馬に乗り降りするとき、貴族の子を伏せさせて踏み台にした」。 朝鮮王朝の史家は暴君と書き、 申采浩は「朝鮮四千年史上第一の英雄」と書いた。 唐に立ち向かった人として。
666年、死んだ。 長男の男生が莫離支を継ぎ、 弟たちが追い出し、 男生は唐へ行き、 2年で国が滅びた。 息子の一人、男産の墓誌が洛陽で出た。 唐の官人として。