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Person / 人

足利尊氏

Ashikaga Takauji
AD1305年 – AD1358年(享年53・推定)
室町幕府重要度 5

概要

幕府の御家人として後醍醐を討ちに出て、途中で寝返って幕府を倒し、二年で後醍醐に背いた。九州へ逃げ、戻って京を取り、幕府を開いた。気前がよく、戦に強く、鬱になって出家しようとした。夢窓疎石が「三つの徳」を挙げた。

関わったできごと(2)

建武の新政AD1333年 · 背いた湊川の戦いAD1336年7月4日 · 勝者

本文

高氏。 足利貞氏の次男。 母は上杉氏。 源氏。 義家の子孫。 北条氏と、代々婚姻。 妻は赤橋登子。 執権の妹。 1331年、父の喪中に、 幕府の命令で後醍醐を討ちに上洛。 1333年、また。 「上洛の途中で、 篠村八幡宮で挙兵した」。 4月29日。 5月7日、六波羅。 「天皇の綸旨を得た」。 綸旨は、 その前から、 持っていたか。 5月22日、義貞が鎌倉。 高氏の息子千寿王(義詮)が義貞の軍にいた。 4歳。 「尊」。 「鎮守府将軍」。 「征夷大将軍」は、もらえなかった。 護良親王が。

1335年8月、中先代。 「征夷大将軍を求めて、 許されず、 出陣した」。 鎌倉を取り返した。 帰らなかった。 弟直義が。 「京へ帰れば殺される」。 11月、義貞の追討軍。 「尊氏は寺に籠って、 戦わない、と言った」。 髪を切ろうとした。 直義が。 「兄が戦わなければ、 足利は滅びる」。 「私が負けている」と嘘を。 出た。 箱根竹ノ下。 1336年1月、京。 2月、負けた。 顕家。 九州へ。 持明院統の光厳上皇から院宣。 「これで朝敵ではない」。 多々良浜。 少弐。 「兵300で、菊池の数万を破った」。 5月、湊川。 6月、京。 8月、光明天皇。 11月7日、建武式目。 「政道の事」。 17条。 「倹約」「群飲佚遊」「狼藉」。 1338年8月、征夷大将軍。

観応の擾乱。 1350年から1352年。 弟直義と。 執事高師直と。 直義が師直を殺し、 尊氏が直義を殺した。 「毒」。 1352年2月、鎌倉。 南朝に降ったこともある。 一時。 息子直冬(直義の養子)とも。 1358年4月30日、京、二条万里小路。 54歳。 背中の腫れ物。 等持院。 「等持院殿」。

夢窓疎石。 『梅松論』。 尊氏の三つの徳。 「心が強く、 戦で死を恐れない」。 「慈悲で、 人を憎まない」。 「心が広く、 物を惜しまない」。 「金銀も、 土地も、 惜しまず人に与えた」。 人がついてきた。 後醍醐が死んだとき、 天龍寺を建てた。 敵のために。 「敵を弔う」。 夢窓が勧めた。 自分で地蔵を描いた。 たくさん。 「私の願いは、 早く世を捨てて、 来世で」。 清水寺への願文。 1336年8月。 京を取った月に。 「今生の果報は直義に」。 弟に。 自分は。 「早く遁世したい」。 遁世しなかった。 22年。