概要
鎌倉幕府が滅び、後醍醐天皇が自ら政治を執った。「朕の新儀は未来の先例」。恩賞は公家に偏り、武士は離れ、「此頃都ニハヤル物、夜討強盗謀綸旨」と落書に書かれた。二年半で尊氏が背いた。
場所
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府
関わった人(3)
後醍醐天皇AD1288年–AD1339年 · 天皇足利尊氏AD1305年–AD1358年 · 背いた楠木正成AD1294年–AD1336年7月4日 · 忠臣本文
1331年、元弘の変。 後醍醐は笠置に逃げ、捕えられ、隠岐へ。 1333年、隠岐を脱出。 名和長年の船上山。 足利高氏が寝返って六波羅を落とし、 新田義貞が鎌倉を落とした。 5月。 6月、京に戻った。
「今の例は昔の新儀なり。朕が新儀は未来の先例たるべし」。 『梅松論』。 光厳天皇の即位を無かったことにし、 年号を元弘に戻し、 摂政関白を置かず、 記録所と雑訴決断所を置き、 自分で裁いた。 綸旨。 すべての土地の所有は綸旨で確認する。 綸旨が殺到し、 偽の綸旨が出回った。
恩賞。 公家と、天皇の側近と、寺社に厚かった。 武士に薄かった。 高氏は「尊」の字を与えられ、尊氏になった。 護良親王は征夷大将軍を求め、 父に警戒され、 尊氏に捕えられて鎌倉へ送られた。
大内裏の造営。 費用のために諸国に税。 紙幣を作ろうとした。 「乾坤通宝」。 流通しなかった。
1334年8月、二条河原の落書。 「此頃都ニハヤル物、 夜討強盗謀綸旨、 召人早馬虚騒動、 生頸還俗自由出家、 俄大名迷者、 安堵恩賞虚軍、 本領ハナルル訴訟人、 文書入タル細葛、 追従讒人禅律僧、 下克上スル成出者」。
1335年、中先代の乱。 北条時行が鎌倉を取った。 尊氏が許可なく出陣し、鎌倉を取り返し、 帰らなかった。 護良親王は殺された。 11月、尊氏は後醍醐に背いた。 1336年、京、九州、湊川、京。 建武の新政、2年半。
『太平記』も『梅松論』も、 後醍醐の側と尊氏の側から、 失敗を書いた。 「延喜天暦の治」に戻ろうとした帝が、 帰る場所を間違えた。