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Person / 人

ボッカッチョ

Giovanni Boccaccio
AD1313年 – AD1375年12月21日(享年62・推定)
フィレンツェ重要度 4

概要

商人の庶子でナポリで育ち、フィレンツェに戻って黒死病を見た。『デカメロン』。晩年はペトラルカに従ってラテン語の学問に戻り、自分の俗語の本を焼こうとして止められた。ダンテの最初の伝記を書き、『神曲』を公開講義した。

関わったできごと(1)

『デカメロン』AD1353年 · 作者

本文

ジョヴァンニ・ボッカッチョ。 1313年。 チェルタルドか、フィレンツェ。 父ボッカッチーノ・ディ・ケッリーノ。 バルディ銀行。 母は分からない。 庶子。 「パリのフランス王女」。 自分でそう書いた。 嘘。

1327年、ナポリ。 父の仕事で。 バルディのナポリ支店。 ロベルト王の宮廷。 「私は商人に向いていない」。 「教会法にも」。 6年。 王の図書館。 チーノ・ダ・ピストイア、 パオロ・ダ・ペルージャ。 「フィアンメッタ」。 マリア・ダキーノ? ロベルト王の庶子? 「架空」。 『フィローコロ』 『フィロストラート』 『テセイダ』。 オッターヴァ・リーマ。 八行詩。 アリオスト、タッソ、バイロン。 1340年、フィレンツェ。 父の破産。 バルディ。 1343年。 『フィアンメッタの哀歌』。 女の独白。 最初の心理小説、と。 『ニンファーレ・フィエゾラーノ』。 1348年。 ペスト。 父が死んだ。 継母も。 1349年から1353年。 『デカメロン』。

1350年10月、 ペトラルカ。 ローマへ行く途中、フィレンツェに。 ボッカッチョの家に。 「私の師」。 「私は彼の弟子」。 手紙。 30年。 1351年、パドヴァ。 ペトラルカをフィレンツェ大学に招くために。 断られた。 1353年、ミラノ。 「僭主に仕えている」。 ペトラルカ。 「私を責めるな」。 1359年、ミラノ。 レオンツィオ・ピラート。 ギリシア語。 ホメロス。 ラテン語訳。 西欧で最初。 1360年、 ピラートをフィレンツェ大学のギリシア語教授に。 「気難しく、 汚く、 獣のような」。 1362年、 チャルディーノ僧の警告。 「死ぬ前に悔い改めよ」。 シエナのピエトロ・ペトローニ。 本を焼こうとした。 図書館をペトラルカに売ろうとした。 ペトラルカが止めた。 「学問を捨てるな」。 「私が死んだら、 本は私のものと合わせて、 学者に」。

『異教の神々の系譜』。 15巻。 『著名な女性たち』。 106人。 イヴから、ナポリのジョヴァンナ女王まで。 『高名な人々の没落』。 『ダンテ礼賛』。 ダンテの最初の伝記。 『神曲』の最初の注釈。 1373年10月、 サント・ステファノ・ディ・バディア教会。 「神曲講義」。 市が金を出した。 100フィオリーノ。 『地獄篇』第17歌で、 病気で止まった。 1374年7月、 ペトラルカが死んだ。 「私はすぐ後を追う」。 1375年12月21日、 チェルタルド。 62歳。 サンティ・ヤコポ・エ・フィリッポ教会。 「私は、 悔い改めた。 私の本は、 残った」。 本人が、 残した。 「デカメロン」の自筆。 ベルリンにある。 1370年頃。 57歳の手。 自分で写した。 「私も後悔している」と 書いたあとで。