概要
宮宰の庶子で、獄から逃げてフランクを取った。トゥールとポワティエの間でアラブ軍を止め、「鉄槌」と呼ばれた。教会の土地を家臣に配って騎兵を養った。王ではなかったが、その子が王になり、孫がカール大帝。
所属
フランク王国関わったできごと(1)
トゥール・ポワティエ間の戦いAD732年 · フランク軍本文
カロルス。 ピピン2世(中ピピン)と、側室アルパイダの子。 父は714年に死んだ。 正妻プレクトルーデが、 カールを獄に入れ、 自分の6歳の孫を宮宰にした。 カールは獄から逃げた。 716年から718年、 アウストラシアの貴族を集め、 ネウストリアと戦い、 アンブレーヴ、ヴァンシー、 プレクトルーデを降し、 ケルンの財宝を取った。 「メロヴィングの王」を自分で立てた。 クロタール4世。 それから、王がいない時期も作った。
フリジア、 アレマン、 バイエルン、 ザクセン。 毎年、遠征した。 アキテーヌ公エウドは独立していた。 732年、 アラブのアブド・アッラフマーン・アル・ガーフィキーがピレネーを越え、 ボルドーでエウドを破り、 トゥールのサン・マルタンへ向かった。 エウドがカールに助けを求めた。 10月、トゥールとポワティエの間。 フランクの歩兵が密集して、 「氷の壁のように」動かなかった、 とイシドルスの続編。 7日の対峙、1日の戦い。 アブド・アッラフマーンが死んだ。 アラブ軍は夜のうちに退いた。
「マルテルス」。鉄槌。 9世紀に付いた名。 ギボン。 「オックスフォードでクルアーンが教えられていたかもしれない」。 そうはならなかったかもしれない。 アラブ軍はプロヴァンスに737年まで残った。
教会の土地を、 騎兵を養うために家臣に与えた。 「プレカリア」。 後の封建制の一つの起こり、と19世紀の歴史家は言った。 教会は彼を憎み、 聖エウケリウスが地獄でカールを見た、と幻視した。 その伝説は、 彼の子孫のカロリング家が教会に土地を返す理由に使われた。
739年、教皇グレゴリウス3世がランゴバルドからの救援を求めた。 断った。 ランゴバルドは、アラブとの戦いの同盟者だった。
741年10月22日、キエルジー。 王ではなく、宮宰のまま死んだ。 サン・ドニに葬られた。 王の墓所に。 国を二人の息子に分けた。 カールマンとピピン。 王のいないまま。