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Person / 人

光明皇后

Empress Kōmyō
AD701年 – AD760年(享年59・推定)
日本重要度 3

概要

藤原不比等の娘で、皇族以外から最初の皇后になった。施薬院と悲田院を置き、千人の垢を自分で洗ったという伝説がある。夫の遺品を東大寺に納め、それが正倉院になる。

所属

日本

関わったできごと(1)

東大寺大仏の開眼AD752年 · 皇后

本文

安宿媛。 不比等と橘三千代の娘。 光明子。 16歳で首皇子(聖武)の妃。 同じ年に生まれ、同じ年に妃になり、 夫より4年長く生きた。

729年、皇后。 「皇后は皇族から」という慣例を、 長屋王を殺して、破った。 以後、藤原氏の娘が皇后になる道が開いた。

皇后宮職。 そこに写経所を置き、 一切経を写させた。 「五月一日経」。 父母のために。 施薬院。 悲田院。 病人と孤児のための施設。 自分で千人の垢を洗うと誓い、 千人目が癩病者で、 膿を口で吸うと、 それが阿閦如来だった、 という伝説。 法華寺の浴室(から風呂)が、その場所とされる。

739年、皇后が発願して、法華寺。 父の家を尼寺にした。 国分尼寺の総本山。 国分寺の詔も、大仏の詔も、 光明の勧めだった、と言われる。 唐の則天武后の大雲寺と大仏を、 玄昉から聞いて。

756年、聖武が死んだ。 49日、 「国家珍宝帳」。 「亡き天皇の遺愛の品を見るたびに悲しみが増す。 仏に捧げて、天皇の冥福を祈る」。 その後も何度か納めた。 750点。 螺鈿の琵琶、 ガラスの碗、 書、 薬。

『楽毅論』。 王羲之の書を臨書した、光明皇后の書が正倉院にある。 署名は「藤三娘」。 藤原の三番目の娘。 筆が強い。

760年6月、60歳で死んだ。 佐保山に葬られた。 正倉院の宝物は、それから1260年、 一度も持ち出されずにある。 ほとんどのものが。