概要
隋の陣に偽って降り、敵の飢えを見て戻り、七度負けて誘い込み、清川江で30万を潰した。隋の将軍に送った五言詩が残る。「戦勝の功すでに高し、足るを知って止まるを願う」。生まれも死にも記録がない。
関わったできごと(1)
薩水の戦いAD612年 · 高句麗の将軍本文
『三国史記』列伝の最初に、金庾信に次いで載る。 「乙支文徳は、その世系を詳らかにせず。 資性沈鷙、智数有り、兼ねて能く文を属す」。 落ち着いていて、猛々しく、知恵があり、文章を書けた。 それだけ。
612年の隋との戦い。 嬰陽王の命で、隋の陣に降伏の使者として入った。 于仲文は事前に、 「王か乙支文徳が来たら捕えよ」という煬帝の密旨を受けていた。 だが慰撫使の劉士龍が止めた。 帰した。 すぐ後悔して、使いを送って 「もう一度話したい」と言った。 乙支文徳は振り返らず、鴨緑江を渡った。
于仲文は追った。 宇文述は食糧が尽きていると言って止めたが、 于仲文が「9軍の中で兵を分けて敵の後ろに回れ」と主張し、 追った。 乙支文徳は一日に七度戦い、七度退いた。 隋軍は薩水を渡り、 平壌の30里まで。
詩。五言四句。 「神策究天文 妙算窮地理 戦勝功既高 知足願云止」。 朝鮮で最も古い漢詩とされる。
そして薩水。 『三国史記』は『隋書』を引いて、 「初め九軍が遼に至ったとき30万5000、 遼東城に還ったとき、ただ2700人」。
その後のことは、何も書かれていない。 何年に死んだかも。 朝鮮王朝時代に平壌の東に祠が建ち、 1948年以後、北の切手と紙幣に顔が刷られ、 南の海軍が艦にその名をつけた。 顔は誰も知らない。