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Event / できごと

薩水の戦い

Battle of Salsu
AD612年
重要度 4

概要

隋の煬帝が113万と称する軍で高句麗を攻め、30万の別動隊が平壌の手前まで来た。乙支文徳が退きながら疲れさせ、帰る軍を清川江で襲った。遼東に戻れたのは2700人と伝わる。隋はこれで傾いた。

場所

薩水(清川江)位置は特定されていない(誤差 ±km)
39.70°N 125.60°E · 北朝鮮・平安北道

関わった人(1)

乙支文徳高句麗の将軍

本文

隋の煬帝は612年、 「113万3800人」と称する軍で高句麗を攻めた。 実際は数十万。 出発だけに40日かかった。

遼東城が落ちない。 煬帝は宇文述と于仲文に30万5000を分けて、 鴨緑江を渡って平壌へ直行させた。 兵は100日分の食糧を担がされ、重くて途中で埋めた。

高句麗の乙支文徳は、降伏の使者として隋の陣に入り、 兵の飢えを見て帰った。 それから一日に七度戦って七度負け、退いた。 隋軍は平壌の30里手前まで来た。 乙支文徳は于仲文に詩を送った。 「神策は天文を究め、妙算は地理を窮む。 戦勝の功すでに高し、足るを知って止まるを願う」。 そして王が降ると言った。

隋軍は帰ることにした。 薩水(清川江)を半分渡ったところで、高句麗が襲った。 「一日一夜で鴨緑江まで450里を走った」。 遼東城に戻ったのは2700人、と『隋書』は書く。

煬帝は翌年も、翌々年も攻めた。 613年は楊玄感の反乱で引き返し、 614年は高句麗が形だけ降って終わった。 その間に各地で反乱が起き、 618年、煬帝は江都で殺された。 隋は38年で終わる。

唐の太宗も645年に攻めて、安市城で止まった。 高句麗が落ちるのは668年、 唐と新羅が組んで、内紛のあとになる。

同じ時代のできごと

推古天皇の即位AD592年アウグスティヌスのケント布教AD597年十七条憲法AD604年ハルシャ王の北インド統一AD606年遣隋使AD607年ヘラクレイオスの治世610年唐の成立AD618年ヒジュラ(聖遷)AD622年