概要
貧しい家。竟陵王の宴で「人の貴賤は花が風に落ちて畳に着くか便所に落ちるかの違い」と言って因果を否定した。「あなたが本を書き換えれば高官になれる」「私は論を売って官を買わない」。『神滅論』。武帝の時代に流されて戻り、また書いた。
関わったできごと(1)
范縝『神滅論』AD507年 · 著者本文
范縝。子真。 「南陽舞陰」。 「父は早く死んだ。貧しく、母に孝」。 「劉瓛。沛国相の人。名儒。数百人の弟子。范縝は麻の履で、恥じなかった」。 「性は質直。危言高論。友は忌んだ。ただ外弟の蕭琛が『縝の簡文は、私を超える』」。 斉。「尚書殿中郎」。 北魏への使者。 「竟陵王蕭子良」。「西邸」。「八友」。 「因果」。「花」。 「神滅論」。 子良は答えられなかった。 王融。「中書郎」。 「売論取官」。 「宜都太守」。 「神を祭らせなかった」。 「梁」。 「晋安太守」。 「尚書左丞」。 「王亮を弁護した。武帝が怒った。広州へ」。 「507年、戻った」。「中書郎、国子博士」。 「敕答臣下神滅論」。武帝。「神は不滅である。仏を信じない者は」。 「64人」。「僧の法雲が、諸大臣に、武帝の論を送った」。 「曹思文『難神滅論』」。 「范縝は反論した」。 「死んだ。60歳前後」。 『梁書』儒林伝。 「精神と肉体」。「質と用」。 「刃と利」。 「木の形と人の形」。 「生きた骨と死んだ骨」。 「知と慮。手足は痛みを知る。心は是非を慮る。だが心は一つ。心が五臓の一つなら、なぜ肝や脾で慮らないか」。「心は、慮の器」。 「聖人の神と凡人の神。聖人は、形も違う」。 「王充から、范縝へ」。 1950年代、中国。「古代の唯物論者」。 「宗教批判の先駆」。 「范縝は、仏教が国のものになる前に、一人で、皇帝と64人と論争して、負けなかった」。 「負けなかった、と『梁書』が書いた」。 「勝ったとは、書かなかった」。