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Person / 人

范縝

Fan Zhen
AD450年頃 – AD510年頃(享年60・推定)
重要度 3

概要

貧しい家。竟陵王の宴で「人の貴賤は花が風に落ちて畳に着くか便所に落ちるかの違い」と言って因果を否定した。「あなたが本を書き換えれば高官になれる」「私は論を売って官を買わない」。『神滅論』。武帝の時代に流されて戻り、また書いた。

関わったできごと(1)

范縝『神滅論』AD507年 · 著者

本文

范縝。子真。 「南陽舞陰」。 「父は早く死んだ。貧しく、母に孝」。 「劉瓛。沛国相の人。名儒。数百人の弟子。范縝は麻の履で、恥じなかった」。 「性は質直。危言高論。友は忌んだ。ただ外弟の蕭琛が『縝の簡文は、私を超える』」。 斉。「尚書殿中郎」。 北魏への使者。 「竟陵王蕭子良」。「西邸」。「八友」。 「因果」。「花」。 「神滅論」。 子良は答えられなかった。 王融。「中書郎」。 「売論取官」。 「宜都太守」。 「神を祭らせなかった」。 「梁」。 「晋安太守」。 「尚書左丞」。 「王亮を弁護した。武帝が怒った。広州へ」。 「507年、戻った」。「中書郎、国子博士」。 「敕答臣下神滅論」。武帝。「神は不滅である。仏を信じない者は」。 「64人」。「僧の法雲が、諸大臣に、武帝の論を送った」。 「曹思文『難神滅論』」。 「范縝は反論した」。 「死んだ。60歳前後」。 『梁書』儒林伝。 「精神と肉体」。「質と用」。 「刃と利」。 「木の形と人の形」。 「生きた骨と死んだ骨」。 「知と慮。手足は痛みを知る。心は是非を慮る。だが心は一つ。心が五臓の一つなら、なぜ肝や脾で慮らないか」。「心は、慮の器」。 「聖人の神と凡人の神。聖人は、形も違う」。 「王充から、范縝へ」。 1950年代、中国。「古代の唯物論者」。 「宗教批判の先駆」。 「范縝は、仏教が国のものになる前に、一人で、皇帝と64人と論争して、負けなかった」。 「負けなかった、と『梁書』が書いた」。 「勝ったとは、書かなかった」。