概要
アンティオキアの修道士からコンスタンティノープル総主教になり、マリアは「神の母」ではなく「キリストの母」だと説いて断罪された。エジプトの砂漠に流されて死んだ。自分では正統だと最後まで言い、その派はペルシアから中国まで広がった。
所属
ローマ帝国関わったできごと(1)
エフェソス公会議AD431年 · 断罪された側本文
シリアのゲルマニケイアに生まれ、 アンティオキアで、モプスエスティアのテオドロスに学んだ。 アンティオキアの学派は、聖書を字義通りに読み、 キリストの人性を神性から分けて考えた。 説教が上手で、 428年、皇帝テオドシウス2世がコンスタンティノープルの総主教に呼んだ。
就任の演説で皇帝に言った。 「陛下、私に異端者のいない大地を。 私は陛下に天を差し上げる」。 アリウス派の集会所を壊し、 ノヴァティアヌス派、マケドニオス派、四十日派を追った。 「火をつける者」とあだ名された。
司祭のアナスタシオスがマリアを「神の母」と呼ぶなと説教し、 騒ぎになった。 ネストリウスは弁護した。 マリアは人を産んだ。 「神は二か月や三か月の胎児ではない」。 「キリストの母」ならよい。
キュリロスがそれを聞いた。 書簡の応酬、教皇への訴え、 431年のエフェソス。 出頭を拒み、欠席で断罪された。 「教会法に反する集まりの決定は無効だ」。
皇帝は最初両方を認めず、それからキュリロスの側についた。 435年、ペトラへ、 それからエジプトのオアシスへ流された。 砂漠の遊牧民に襲われ、逃げ、また捕えられた。 そこで『ヘラクレイデスの書』を書いた。 シリア語訳が1889年に見つかった。 自分の説はカルケドン(451年)の決定と同じだ、と。 実際、かなり近い。
死んだ年は分からない。 カルケドンの直前とも、直後とも。 「舌が腐って死んだ」とキュリロスの側は書いた。
彼の派はペルシアに移り、 ニシビスの学校で学び、 ソグド、インド、中国へ行った。 14世紀まで、キリスト教徒の数はローマの教会より多かった、 と言う人もいる。 いまはイラクとイランとインドに残り、 「アッシリア東方教会」と呼ばれる。 彼らはネストリウスの名を、自分の教会の名にしていない。