概要
宮宰として、教皇に「力のない王と力のある者、どちらが王であるべきか」と問い、答えを得て、最後のメロヴィング王を修道院に送った。イタリアに二度遠征してランゴバルドから土地を取り、教皇に寄進した。
所属
フランク王国関わったできごと(1)
ピピンの寄進AD756年 · 王本文
ピピヌス。 カール・マルテルの次男。 「小ピピン」は後世の名。 背が低かったかどうか、分からない。 サン・ドニで育ち、 741年、兄カールマンとフランクを分けた。 747年、カールマンが修道士になってモンテ・カッシーノへ。 ピピンが一人で宮宰。
メロヴィングの王、キルデリク3世。 「何もしない王」(レックス・ニヒル・ファキエンス)。 アインハルトの言葉。 「長い髪と髭で玉座に座り、 牛車で議会に行く」。
750年、教皇ザカリアスに使者。 「フランクの王は王の名を持ちながら、力がない。 これは良いことか」。 ザカリアス。 「力を持つ者が王と呼ばれるほうが良い」。 751年、ソワソン。 キルデリクは髪を切られ、 サン・ベルタン修道院へ。 ピピンは王に選ばれ、 ボニファティウスが油を注いだ。 フランクで最初の塗油。 旧約の王のように。
753年、教皇ステファヌス2世がアルプスを越えた。 ランゴバルドのアイストゥルフがラヴェンナを取り、ローマを脅かしていた。 754年1月、ポンティオン。 ピピンは教皇の馬の手綱を取って歩いた。 7月、サン・ドニ。 教皇がピピンと二人の息子に油を注ぎ、 「ローマ人の守護者」(パトリキウス・ロマノルム)とした。 フランク人が他の家から王を選ぶことを禁じた。
754年と756年、イタリア。 アイストゥルフを二度囲み、 ラヴェンナからローマまでの土地を取り、 教皇に渡した。 「ピピンの寄進」。 ビザンツの使者が「ラヴェンナは皇帝のもの」と言い、 ピピンは「聖ペテロのために取った」と答えた。 教皇領。 1870年まで。
759年、ナルボンヌ。アラブから取り返した。 768年、アキテーヌ。 9年の遠征でエウドの孫を降し、 帰る途中、サン・ドニで死んだ。54歳。 うつ伏せに埋めるよう遺言した。 父の罪のために。 王国を二人の息子に分けた。 カールとカールマン。 カールマンは3年で死んだ。