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Person / 人

ペトラルカ

Petrarch
AD1304年7月20日 – AD1374年7月19日(享年69)
アヴィニョン重要度 5

概要

アヴィニョンの教会でラウラを見て、生涯366篇のソネットを書いた。キケロの手紙を見つけ、古代を「光」、その後を「暗黒」と呼んで、ルネサンスの言葉を作った。ヴァントゥー山に登って景色のために登った最初の人とされる。机で本を読んだまま死んだ。

関わったできごと(1)

ペトラルカの桂冠AD1341年4月8日 · 詩人

本文

フランチェスコ・ペトラルカ。 1304年7月20日、アレッツォ。 父ペトラッコ。 公証人。 ダンテと同じ年に、 同じ理由で、 フィレンツェから追放された。 白派。 1312年、アヴィニョン。 カルパントラ。 モンペリエ、ボローニャ、法学。 「法学の7年を捨てた」。 父が死んで、 1326年、アヴィニョン。 教皇庁。 「バビロン」。 下級の聖職。 コロンナ家。 ジョヴァンニ・コロンナ枢機卿。 1327年4月6日、聖金曜日。 サント・クレール教会。 ラウラ。 「ラウラは私の目の前に最初に現れた、 私の若い日の初めに」。 ラウラ・デ・ノーヴェス? ユーグ・ド・サドの妻? 11人の子? 分からない。 実在したか、 「ラウロ」(月桂樹)の言葉遊びか。 コロンナ枢機卿の弟が疑った。 「ラウラは、 私の詩の中の月桂樹だ」。 1348年4月6日、 同じ日に、 ペスト。 ラウラが死んだ。 ウェルギリウスの写本の見返しに、 書いた。 「1327年4月6日の朝、 私は彼女を初めて見た。 1348年4月6日の同じ時刻に、 彼女はこの世を去った」。 21年。 「生前のラウラの詩」263篇、 「死後のラウラの詩」103篇。 『カンツォニエーレ』。 『レールム・ヴルガリウム・フラグメンタ』。 「俗語の断片」。 ソネット317、 カンツォーネ29、 セスティーナ9、 バッラータ7、 マドリガーレ4。 「ペトラルキズモ」。 ヨーロッパの抒情詩は、 300年、 これの模倣。 「私は詩を書いている、 女性が読む」。 シェイクスピアの130番。 「私の恋人の目は太陽に似ていない」。 ペトラルカへの反歌。

1336年4月26日、 ヴァントゥー山。 弟ゲラルドと。 1912メートル。 「登るために登った」。 頂上で『告白』を開いた。 アウグスティヌス。 「人は山や海や星を見に行くが、 自分自身を見ない」。 「私は自分に腹を立てた」。 「アルピニズムの始まり」。 「近代の最初の人」。 ブルクハルト。 手紙は後で書かれた、と。 1353年頃。 「創作」。

キケロ。 1333年、リエージュ、『アルキアース弁護』。 1345年、ヴェローナ、『アッティクス宛書簡』。 「私は生きている人に手紙を書くように、 死んだキケロに手紙を書いた」。 『親交書簡集』。 「古典の再発見」。 「暗黒時代」。 「テネブラエ」。 自分の時代を。 「私は二つの民の境に立っている」。

ヴォークリューズ。 ソルグの泉。 「私はここで、 一人で、 本と共に」。 1343年、 アヴィニョン、 「愛の娘」。 息子ジョヴァンニ、 娘フランチェスカ。 聖職者だが。 1350年、 ボッカッチョ。 フィレンツェ。 1353年、 イタリア。 ミラノ。 ヴィスコンティ。 「僭主に仕えている」。 ボッカッチョが責めた。 パドヴァ、 ヴェネツィア。 「私の本を、 ヴェネツィアに」。 最初の公共図書館、 になるはずだった。 散逸した。 1370年、 アルクァ。 1374年7月18日。 70歳の前日。 「ウェルギリウスの上に頭を置いて」。 ヴェルギリウス写本、 いまアンブロジアーナ。 シモーネ・マルティーニの絵の口絵。 「彼の遺言。 ボッカッチョに、 冬の夜のためのガウンを買う金50フィオリーノ」。