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Person / 人

田中正造

Tanaka Shōzō
AD1841年12月15日 – AD1913年9月4日(享年71)
日本重要度 4

概要

下野の名主の子で、栃木県議、衆議院議員。足尾の鉱毒で「亡国に至るを知らざれば之即ち亡国」と演説し、議員を辞めて天皇に直訴した。谷中村に住み込んで、村と共に消えた。遺品は小石と聖書と日記。

所属

日本

関わったできごと(1)

足尾鉱毒事件AD1901年12月10日 · 直訴

本文

下野国安蘇郡小中村。 名主。 富蔵。 1841年。 「兼三郎」。 17歳で名主。 1868年、 領主六角家の悪政を、 訴えた。 獄。 11か月。 1870年、 江刺県(岩手)。 花輪の役人。 上司の殺害を疑われた。 獄。 3年。 無罪。 1874年、 帰った。 1878年、 区会議員。 1879年、 『栃木新聞』。 1880年、 栃木県議。 自由民権。 1882年、 「県令三島通庸」。 「土木」。 「加波山事件」。 田中は、 逮捕。 1886年、 県議会議長。 1890年、 第一回総選挙。 栃木3区。 立憲改進党。 49歳。 「議員」。 「鉱毒」。 1891年12月。 「第二議会」。 10年。 「議員を、 辞めた」。 1901年10月。 「直訴」。 12月10日。 「幸徳秋水が、 書いた」。 「田中は、 2日で、 暗記した」。 「草稿の、 『皇帝』を、 『陛下』に、 直した」。 「田中は、 白い着物で」。 「手には、 直訴状」。 「馬車の、 30メートル手前で」。 「警官が」。 「田中は、 転んだ」。 「直訴状は、 届かなかった」。 「その夜、 釈放」。 「『狂人』」。 「田中は、 狂っていない」。 「新聞は、 翌日、 全文を載せた」。 「東京の学生、 800人が、 現地へ」。 「鉱毒地救済婦人会」。 「潮田千勢子」。 1902年、 「谷中村」。 1904年、 「移住」。 「田中は、 谷中村の、 農家に」。 「川鍋家」。 1907年、 「強制破壊」。 「16戸」。 「田中は、 残った」。 「残留民」。 「仮小屋」。 1911年、 「渡良瀬川、 利根川の、 調査」。 「田中は、 70歳で、 川を、 歩いた」。 「治水」。 「洪水は、 鉱毒ではなく、 川を、 まっすぐにしたから」。 「川は、 曲がって、 流れるもの」。 1913年8月2日、 「巡回中に、 倒れた」。 「佐野」。 「庭田清四郎家」。 9月4日。 「死んだ」。 「遺品」。 「菅笠、 信玄袋。 中に、 帝国憲法、 新約聖書、 日記3冊、 鼻紙、 河川調査記録、 小石3個」。 「所持金、 なし」。 「無一物」。 「墓は、 6か所」。 「分骨」。 「佐野、 足利、 谷中、 館林、 北川辺、 藤岡」。 「農民が、 分けた」。 「真の文明は、 山を荒らさず、 川を荒らさず、 村を破らず、 人を殺さざるべし」。 1912年6月17日の日記。 「田中は、 最後の日記に、 何を」。 「秋の、 『下野の、 田を、 思う』」。 「谷中村」は、 「渡良瀬遊水地」。 「ヨシ原」。 「谷中湖」。 「1990年」。 「ラムサール」。 「2012年」。 「田中は、 知らない」。 「田中は、 知っていた」。