概要
渡良瀬川の魚が死に、田が枯れ、農民が押し出しに出た。衆議院議員の田中正造が議会で10年訴え、議員を辞めて天皇に直訴した。谷中村は遊水地にされて消えた。日本の公害の最初。
場所
36.63°N 139.45°E · 栃木県日光市
関わった人(1)
田中正造AD1841年12月15日–AD1913年9月4日 · 直訴本文
足尾銅山。 1610年から。 幕府の。 1877年、 古河市兵衛が買った。 1884年、 大鉱脈。 横間歩。 1885年、 日本の銅の3分の1。 1890年、 4割。 ベッセマー式。 硫黄と亜砒酸。 山の木は、 精錬の煙で枯れ、 坑木で伐られ、 1887年、 足尾の山が。 洪水。 渡良瀬川。 1885年、 魚が死んだ。 『朝野新聞』。 1890年8月、 大洪水。 群馬、栃木の田畑。 1600ヘクタール。 稲が枯れた。 桑が枯れた。 銅と砒素と硫酸。 「鉱毒」。
田中正造。 栃木3区。 1891年12月18日、 第二議会。 「足尾銅山鉱毒の儀に付質問」。 「鉱業条例第59条、 公益に害あるときは、 農商務大臣は鉱業を停止できる」。 政府、 「調査中」。 陸奥宗光農商務相。 その息子は、 古河市兵衛の養子。 1892年、 「示談」。 補償金。 「以後、 苦情を言わない」。 1896年、 また大洪水。 1897年3月2日、 「押し出し」。 農民2000人が東京へ。 3月24日、 第二次。 榎本武揚農商務相が、 現地を見て、 辞任。 「鉱毒調査委員会」。 「予防工事命令」。 37項目。 古河は、 100万円かけて、 やった。 沈殿池、 濾過池、 脱硫塔。 効かなかった。 1898年、 第三次押し出し。 1900年2月13日、 第四次。 川俣。 2500人。 警官と憲兵。 「兇徒聚衆罪」。 51人が起訴。 田中は議会で、 「民を殺すは国家を殺すなり、 法を蔑にするは国家を蔑にするなり、 皆自ら国を毀つなり。 財用を濫り、 民を殺し、 法を乱して而して亡びざるの国なし」。 「亡国に至るを知らざれば之即ち亡国」。 山県首相、 「質問の意味が分からない」。 1901年10月23日、 議員辞職。 12月10日、 帝国議会の開院式の帰り。 天皇の馬車。 「謹奏」。 幸徳秋水が書いた。 警官に取り押さえられた。 「狂人」。 釈放。 罪に問われなかった。 翌日の新聞。 全国。 学生が。 1902年、 鉱毒調査委員会(第二次)。 「渡良瀬川の洪水を防ぐ」。 「遊水地」。 谷中村。 1904年、 栃木県が買収を始めた。 1906年、 村を廃止。 藤岡町に合併。 1907年、 強制破壊。 残った16戸。 田中は、 1904年から谷中村に住んだ。 1913年9月4日、 死んだ。 71歳。 「遺品」。 信玄袋。 帝国憲法と新約聖書、 日記3冊、 鼻紙、 河川調査の記録、 小石3個。 1974年、 古河鉱業が、 群馬の農民と、 補償の協定。 1973年、 閉山。 渡良瀬遊水地。 ラムサール条約。 谷中村の跡は、 その中に。