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Person / 人

陶淵明

Tao Yuanming
AD365年 – AD427年(享年62・推定)
東晋重要度 4

概要

曾祖父は東晋の大司馬だったが、家は貧しかった。役人を五度やめ、最後に「帰去来の辞」を書いて帰り、畑と酒と詩で暮らした。「菊を采る東籬の下、悠然として南山を見る」。桃源郷の話を作った。

関わったできごと(1)

陶淵明「帰去来の辞」AD405年 · 詩人

本文

名は潜、字は淵明、あるいは名が淵明で字が元亮。 潯陽柴桑(いまの江西省九江)。

曾祖父の陶侃は東晋の初めに大司馬になった武人。 祖父の陶茂は武昌太守。 父は名も分からない。 「少くして家貧しく、老いてますます貧し」。

29歳で州の祭酒になり、すぐ辞めた。 36歳で桓玄の幕僚、母の喪で帰った。 40歳で劉裕(のちの宋の武帝)の参軍、 建威参軍、 そして405年、彭沢令。 公田に糯米を植えさせようとして、 妻に「飯にする米も」と言われて、一部を粳米にした。 80日あまりで帰った。

「園田の居に帰る」五首。 「久しく樊籠の裡に在り、復た自然に返るを得たり」。 「飲酒」二十首。 「結廬在人境、而無車馬喧、問君何能爾、心遠地自偏」。 「責子」で五人の息子が皆学問をしないと嘆いた。 「天運苟し此の如くんば、且く杯中の物を進めん」。

廬山の慧遠の白蓮社に誘われ、 「酒を飲めるなら」と行って、 眉をひそめて帰った、と伝わる。 劉裕が宋を建てて晋を滅ぼした。 420年。 以後の詩に、年号ではなく干支だけを書いた、と言われる。 晋の遺臣として。 そう読んだのは後世で、実際には両方ある。

427年、63歳。 「自祭文」と「挽歌詩」を自分で書いた。 「死去何所道、託体同山阿」。 死んで何を言おう、体を山に預けるだけだ。

梁の昭明太子が文集を編んだ。 「その文章は群を抜いて、辞采精抜」。 だが鍾嶸の『詩品』は中品に置いた。 唐で王維と孟浩然が学び、 宋で蘇軾が「淵明の詩に和す」109首を作って、 「李白も杜甫も及ばない」と言った。 以後、隠者と言えば、この人の形になる。