概要
曾祖父は東晋の大司馬だったが、家は貧しかった。役人を五度やめ、最後に「帰去来の辞」を書いて帰り、畑と酒と詩で暮らした。「菊を采る東籬の下、悠然として南山を見る」。桃源郷の話を作った。
関わったできごと(1)
陶淵明「帰去来の辞」AD405年 · 詩人本文
名は潜、字は淵明、あるいは名が淵明で字が元亮。 潯陽柴桑(いまの江西省九江)。
曾祖父の陶侃は東晋の初めに大司馬になった武人。 祖父の陶茂は武昌太守。 父は名も分からない。 「少くして家貧しく、老いてますます貧し」。
29歳で州の祭酒になり、すぐ辞めた。 36歳で桓玄の幕僚、母の喪で帰った。 40歳で劉裕(のちの宋の武帝)の参軍、 建威参軍、 そして405年、彭沢令。 公田に糯米を植えさせようとして、 妻に「飯にする米も」と言われて、一部を粳米にした。 80日あまりで帰った。
「園田の居に帰る」五首。 「久しく樊籠の裡に在り、復た自然に返るを得たり」。 「飲酒」二十首。 「結廬在人境、而無車馬喧、問君何能爾、心遠地自偏」。 「責子」で五人の息子が皆学問をしないと嘆いた。 「天運苟し此の如くんば、且く杯中の物を進めん」。
廬山の慧遠の白蓮社に誘われ、 「酒を飲めるなら」と行って、 眉をひそめて帰った、と伝わる。 劉裕が宋を建てて晋を滅ぼした。 420年。 以後の詩に、年号ではなく干支だけを書いた、と言われる。 晋の遺臣として。 そう読んだのは後世で、実際には両方ある。
427年、63歳。 「自祭文」と「挽歌詩」を自分で書いた。 「死去何所道、託体同山阿」。 死んで何を言おう、体を山に預けるだけだ。
梁の昭明太子が文集を編んだ。 「その文章は群を抜いて、辞采精抜」。 だが鍾嶸の『詩品』は中品に置いた。 唐で王維と孟浩然が学び、 宋で蘇軾が「淵明の詩に和す」109首を作って、 「李白も杜甫も及ばない」と言った。 以後、隠者と言えば、この人の形になる。