概要
農民の子から将軍になり、金の軍を何度も破った。北伐の途中で12回の召還命令を受けて引き返し、獄で殺された。39歳。杭州の墓の前に秦檜夫婦の鉄像が跪き、人々が唾を吐く。
所属
宋関わったできごと(1)
紹興の和議と岳飛の死AD1141年 · 殺された将軍本文
河南湯陰の農家に生まれた。 生まれたとき大きな鳥が屋根に止まったので飛と名づけた。 背中に母が「尽忠報国」の四字を彫った、という話は ずっとあとの小説の作りになる。
20歳で兵になった。 靖康の変のあと、高宗の南遷に従い、 30歳で軍を持った。 岳家軍は略奪をしなかった。 「凍死しても家を壊さず、餓死しても掠奪せず」。 金の兵は「山を動かすのは易く、岳家軍を動かすのは難い」と言った。
1134年に襄陽など六郡を取り戻し、 1140年に郾城で金の重装騎兵「鉄浮図」を破った。 兵に馬の脚を斬らせた。 朱仙鎮まで進み、開封まで45里。 そこに12通の金牌。
1141年、兵権を奪われ、 部下の王貴と王俊が謀反を密告するよう仕向けられ、 獄に入れられた。 韓世忠が秦檜に「何の罪だ」と問い、 秦檜は「莫須有」と答えた。 韓世忠は「三つの字で天下を納得させられるか」と言った。
1142年1月27日、獄中で死んだ。 毒とも、拷問とも言う。 息子の岳雲と部将の張憲は市場で斬られた。 獄卒が遺体を持ち出して埋め、 21年後に孝宗が名誉を回復して、西湖の岸に移した。
『満江紅』の詞は岳飛の作として伝わり、 「壮志飢餐胡虜肉、笑談渇飲匈奴血」の句がある。 明代の偽作説がある。