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Person / 人

岳飛

Yue Fei
AD1103年 – AD1142年(享年39・推定)
重要度 3

概要

農民の子から将軍になり、金の軍を何度も破った。北伐の途中で12回の召還命令を受けて引き返し、獄で殺された。39歳。杭州の墓の前に秦檜夫婦の鉄像が跪き、人々が唾を吐く。

所属

関わったできごと(1)

紹興の和議と岳飛の死AD1141年 · 殺された将軍

本文

河南湯陰の農家に生まれた。 生まれたとき大きな鳥が屋根に止まったので飛と名づけた。 背中に母が「尽忠報国」の四字を彫った、という話は ずっとあとの小説の作りになる。

20歳で兵になった。 靖康の変のあと、高宗の南遷に従い、 30歳で軍を持った。 岳家軍は略奪をしなかった。 「凍死しても家を壊さず、餓死しても掠奪せず」。 金の兵は「山を動かすのは易く、岳家軍を動かすのは難い」と言った。

1134年に襄陽など六郡を取り戻し、 1140年に郾城で金の重装騎兵「鉄浮図」を破った。 兵に馬の脚を斬らせた。 朱仙鎮まで進み、開封まで45里。 そこに12通の金牌。

1141年、兵権を奪われ、 部下の王貴と王俊が謀反を密告するよう仕向けられ、 獄に入れられた。 韓世忠が秦檜に「何の罪だ」と問い、 秦檜は「莫須有」と答えた。 韓世忠は「三つの字で天下を納得させられるか」と言った。

1142年1月27日、獄中で死んだ。 毒とも、拷問とも言う。 息子の岳雲と部将の張憲は市場で斬られた。 獄卒が遺体を持ち出して埋め、 21年後に孝宗が名誉を回復して、西湖の岸に移した。

『満江紅』の詞は岳飛の作として伝わり、 「壮志飢餐胡虜肉、笑談渇飲匈奴血」の句がある。 明代の偽作説がある。