概要
南宋が金に臣を称し、淮河を境にし、銀と絹を毎年送る和議を結んだ。北伐を主張した将軍の岳飛は獄で殺された。罪名を問われた宰相秦檜は「あるかもしれない」と答えたと伝わる。
場所
杭州(臨安)
30.25°N 120.17°E · 中国・浙江省
30.25°N 120.17°E · 中国・浙江省
関わった人(2)
岳飛AD1103年–AD1142年 · 殺された将軍秦檜AD1090年–AD1155年 · 宰相本文
靖康の変から14年。 南宋の高宗は北の兄(欽宗)が帰ってくることを望んでいなかった。 帰れば自分は皇帝でなくなる。
岳飛は1140年、郾城で金の重装騎兵を破り、 開封の手前の朱仙鎮まで進んだ。 「黄龍府まで行って諸君と痛飲しよう」と言った、と伝わる。 そこに一日で12通の金牌(緊急の召還命令)が来た。 岳飛は「十年の功が一日で廃れた」と言って引き返した。
1141年の和議。 南宋は金に臣を称し、皇帝は金の冊封を受け、 淮河と大散関を境にし、 毎年銀25万両と絹25万匹を送る。 金は高宗の母と、徽宗の棺を返した。
岳飛は兵権を奪われ、獄に入れられた。 罪を問われた秦檜は「莫須有」と答えた。 「あるかもしれない」、あるいは「なくてはならない」。 1142年1月、獄中で殺された。39歳。
20年後に名誉が戻り、杭州の西湖のほとりに廟が建った。 その前に、秦檜夫婦の鉄の像が後ろ手に縛られて跪いている。 参拝者は像に唾を吐いてから中に入る。