概要
滅んだ伽耶の王族の子で、新羅の花郎になった。妹を金春秋(武烈王)に嫁がせ、義兄弟として国を動かした。百済を滅ぼし、高句麗を滅ぼし、唐の軍を追い出す途中で死んだ。半島の統一の、軍の側の顔になる。
所属
新羅関わったできごと(3)
黄山伐の戦いAD660年7月 · 新羅の将軍百済の滅亡AD660年 · 新羅軍高句麗の滅亡AD668年 · 新羅軍本文
伽耶(金官国)の最後の王仇衡王の曾孫。 532年に新羅に降った王家で、 新羅の真骨の身分をもらったが、 伽耶の出だと見られていた。 父の金舒玄が、新羅の王族の万明と駆け落ちして生まれた。
15歳で花郎になり、 「龍華香徒」と呼ばれる郎徒を率いた。 17歳で中嶽の石窟に入って、 高句麗と百済と靺鞨を平らげる力を祈った、 と『三国史記』は書く。 老人が現れて秘法を授けた。
妹の文姫を金春秋に嫁がせた話。 姉の宝姫が西岳に登って小便で京城を浸す夢を見て、 文姫が絹の裙でその夢を買った。 庾信が春秋と蹴鞠をして、 わざと衣の紐を踏み切り、 家で妹に縫わせた。 文姫が身籠り、 庾信が「未婚の妹を焼き殺す」と薪を積み、 善徳女王が南山からその煙を見て、 春秋に「お前のしたことだろう」と言って、 結婚させた。 その子が文武王。
644年、百済の7城を取り、 645年、647年、百済を退けた。 647年、毗曇の乱。 星が落ちて女王の側が動揺し、 庾信は火のついた凧を夜空に上げて、 「星が戻った」と言った。
654年、春秋が王になり、 660年、黄山、 階伯と四度戦って、 五度目に勝った。 唐の蘇定方が新羅の遅刻を咎めて将軍を斬ろうとし、 庾信が「唐と先に戦う」と言って、止めた。
661年、平壌の唐軍に食糧を運んだ。 高句麗の領内を冬に、2000両の車で。 668年、平壌。 病んで、出られなかった。 王は「あなたがいなければ、私は行けない」と言った。
673年、79歳で死んだ。 臨終に文武王に言った。 「小人を近づけず、君子を遠ざけず」。 『三国遺事』では、死後に霊が未鄒王の陵に来て、 「私の子孫が罪なく殺された、もう国を守らない」と言い、 王が謝って引き留めた話がある。 興武大王と追封された。 臣下で王と呼ばれた唯一の人になる。