概要
唐の13万が海から、新羅の5万が陸から。百済の階伯は5000で黄山の野に出る前に妻子を殺した。四度勝って五度目に負けた。16歳の花郎官昌が一人で突っ込んで殺され、その首を見て新羅の兵が動いた。10日後、泗沘が落ちた。
場所
36.19°N 127.10°E · 韓国・忠清南道
関わった人(2)
金庾信AD595年–AD673年 · 新羅の将軍階伯?–AD660年 · 百済の将軍本文
660年。 唐の蘇定方が13万で山東から海を渡り、徳物島。新羅の武烈王と金庾信が5万で陸から。 7月9日、黄山の野。論山。 階伯。5000。「一国の人で唐と羅の大兵に当たる。存亡は知れない。妻子が捕えられて奴婢になるより、生きて辱められないうちに」。妻子を殺した。 「昔、句践は5000で呉の70万を破った。今日、力を尽くして国の恩に報いよ」。 三つの陣。新羅は三つに分けて攻め、四度負けた。 金欽純が息子盤屈を出した。死んだ。品日が息子官昌を呼んだ。16歳。「今日は功名を立てて富貴になる時」。 馬で突っ込み、捕えられた。階伯は兜を取らせて少年を見て、殺すのを惜しんで返した。「新羅には壮士が多い。少年でこうなら、壮士は」。 官昌は水を一口飲んで、また突っ込んだ。階伯は首を斬って馬の鞍に結んで返した。 品日は息子の首を持って血を袖で拭いた。「私の子の顔は生きているようだ。国のために死んだ、悔いはない」。 新羅の兵が動いた。階伯が死んだ。 7月10日。唐との合流の約束の日に1日遅れた。蘇定方が新羅の督軍金文穎を斬ろうとし、金庾信が「黄山の戦いを見ずに期日に遅れたと罪にするなら、私は先に唐と戦う」と斧を持って門に立った。蘇定方が引いた。 7月12日、泗沘を囲んだ。18日、義慈王が熊津から降った。 700年の百済が終わった。
論山に階伯の墓と言われる墓。1966年に整えられた。 忠壮祠。 階伯の妻子を殺した話は、忠義か、狂気か。朝鮮の儒者は忠義と読み、いまは問う人がいる。 官昌は花郎。「花郎世記」。少年を戦場に送った父たち。新羅はそうやって勝った。 黄山伐は日本語で「こうざんばつ」。「伐」は野。 白村江は3年後。倭が百済を助けに来て負けた。百済の遺民が日本へ。