概要
唐の13万が海から、新羅の5万が陸から来た。階伯の5000が黄山で四度勝って五度目に全滅し、都の泗沘が落ちた。王は唐へ連れ去られ、遺臣が日本に救援を求めた。それが白村江になる。
場所
泗沘(扶余)
36.28°N 126.91°E · 韓国・忠清南道
36.28°N 126.91°E · 韓国・忠清南道
関わった人(1)
金庾信AD595年–AD673年 · 新羅軍本文
百済の義慈王は即位の初め、新羅の40城を取った。 642年、大耶城を落として新羅の城主夫婦を殺した。 その娘婿が金春秋だった。 春秋は高句麗に援けを求めて捕えられ、 倭に行き、唐に行った。 唐に行って、太宗に会い、 唐の服を着て、唐の年号を使うことにした。
660年、唐の高宗は蘇定方に13万を与えて海を渡らせた。 新羅の武烈王(春秋)は金庾信に5万を与え、陸から出した。 義慈王は判断を迷い、 成忠が獄中から「白江と炭峴を守れ」と言い、 興首が同じことを言ったが、 臣下が興首を疑って、聞かなかった。
階伯は5000の決死隊を出した。 出る前に妻子を自分で殺した。 「敵の奴隷になるより、死んだほうがよい」。 黄山(論山)で新羅の5万と四度戦い、四度勝った。 五度目、新羅の花郎の少年官昌が単騎で突っ込み、 捕えられ、返され、また突っ込んで、殺された。 新羅軍は怒って総攻撃し、階伯は死んだ。
唐軍は白江から入り、 7月18日、泗沘が落ちた。 義慈王は熊津に逃げ、降った。 王と太子と大臣88人と民1万2000が唐に送られ、 王はその年のうちに洛陽で死んだ。
鬼室福信と僧道琛が周留城で立てこもり、 倭にいた王子豊璋を呼んだ。 斉明天皇は自分で筑紫まで出て、そこで死んだ。 663年、白村江。