概要
フランス、ハンガリー、ドイツの騎士が最後の十字軍としてドナウを下り、バヤズィトに壊滅させられた。捕虜3000人が翌朝斬られた。以後、西欧はオスマンに軍を送らない。
場所
43.71°N 24.90°E · ブルガリア・ニコポル
関わった人(1)
バヤズィト1世(雷帝)AD1360年–AD1403年3月8日 · スルタン本文
ジギスムント。 ハンガリー王。 のちに皇帝。 1395年、オスマンがブルガリアを取り、 ハンガリーの国境に来た。 教皇(二人とも)に十字軍を求めた。 フランスが応じた。 ブルゴーニュ公の息子、ヌヴェール伯ジャン(のちの無畏公)、24歳。 ブシコー元帥、 クーシー領主、 ウー伯、 ラ・マルシュ伯。 「花の騎士道」。 ドイツ、ボヘミア、ポーランド、 ロドスの聖ヨハネ騎士団、 ヴェネツィアとジェノヴァの船。 1万5000から2万。 「10万」と当時は書いた。
ブダに集まり、 ドナウを下り、 ヴィディンを取り、 ラホヴォで住民を殺し、 9月12日、ニコポリス。 城を囲んだ。 攻城機がなかった。 宴会をした。 「トルコ人は来ない」。
9月25日。 バヤズィトはコンスタンティノープルの包囲から、 7日で来た。 1万5000から2万。 セルビアのステファン・ラザレヴィチと。 ジギスムントは「ハンガリーの軽騎兵を先に、 オスマンの軽騎兵と弓兵を退けてから、 騎士は本隊に」と言った。 フランスは「我々が後ろにいるのは名誉に反する」。 ヌヴェール伯とウー伯が先頭で突撃した。 軽騎兵を潰し、 弓兵の杭の列に突っ込み、 馬を降り、 杭を抜き、 丘を登り、 イェニチェリを破り、 丘の頂で、 シパーヒの騎兵が待っていた。 ハンガリー軍は、 フランス軍の馬が主人なしで戻ってくるのを見て、 崩れた。 ジギスムントは船で逃げた。 コンスタンティノープルを経由して。 「我々はフランス人の高慢と虚栄で負けた」。
翌朝。 バヤズィトはラホヴォの虐殺を見て、 捕虜を並べさせた。 朝から午後まで。 3000人。 「1万」とも。 ヌヴェールら20人ほどの大貴族は、 身代金のために残された。 ジャン・ド・ヌヴェールは20万ドゥカートで、 翌年帰った。 「無畏」(サン・プール)。 ブシコーも。 帰って、聖ヨハネ騎士団と、 「白い貴婦人の騎士団」を作った。
ヨーロッパの大きな十字軍は、これが最後。 オスマンはコンスタンティノープルの包囲に戻った。 1402年、ティムール。 その6年の延期がなければ、 1453年は1400年代の初めだった。