概要
南インドを中心に、550万から1000万人が死んだとされる。同じ期間、インドから英国への穀物輸出は続いていた。救済の是非が、本国で経済学の議論として扱われた。
場所
チェンナイ
13.08°N 80.27°E · インド・タミル・ナードゥ州(旧マドラス)
13.08°N 80.27°E · インド・タミル・ナードゥ州(旧マドラス)
本文
モンスーンが二年続けて不足した。
南インドを中心に、 550万から1000万人が死んだとされる。
同じ期間、インドから英国への穀物輸出は続いていた。
救済のやり方をめぐって、 本国で議論があった。
救済すれば依存を生む、 市場が価格を通じて調整するはずだ、 という主張が採られた。
働ける者には労働を課し、 その対価として食糧を与えた。
支給された食糧の量が、 後の強制収容所の配給より少なかった、 という指摘がある。
写真が残っている。
その写真が、英国内で救済を求める運動を起こした。
飢饉委員会が作られ、 以後の対応の基準(飢饉法典)が定められる。
自然災害が、政策によって規模を変えた例になる。