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Event / できごと

カティンの森

Katyn massacre
AD1940年4月
重要度 4

概要

ソ連がポーランドの将校、警官、知識人2万2000人を後頭部から撃った。1943年にドイツが森で見つけて発表し、ソ連は「ドイツがやった」と言い続けた。連合国は黙った。1990年、ゴルバチョフが認めた。2010年、追悼に向かうポーランド大統領機がスモレンスクで落ちた。

場所

カティン
54.77°N 31.79°E · ロシア・スモレンスク州

関わった人(1)

ヨシフ・スターリンAD1878年12月18日–AD1953年3月5日 · 命じた

本文

1939年9月17日。ソ連が東から。 ポーランド軍の将校。25万人が捕虜。 NKVD。コゼリスク、スタロベリスク、オスタシコフ。3つの収容所。将校、警官、国境警備、憲兵、地主、司祭。1万5000人。 1940年3月5日。ベリヤの覚書。「ソヴィエト権力の、頑固で、改悛しない敵。最高刑を」。スターリン、ヴォロシーロフ、モロトフ、ミコヤンが署名。 4月3日から5月19日。 コゼリスクの4400人はカティンの森へ。夜、トラックで。後頭部にワルサー。ドイツ製の弾。手を縛られた者も。 スタロベリスクの3800人はハリコフのNKVDの地下室で。オスタシコフの6300人はカリーニン(トヴェリ)のNKVDの地下室で。 他の収容所とウクライナとベラルーシの監獄で7300人。 2万2000人。 1941年、ドイツが来た。ポーランドの亡命政府がスターリンに「将校はどこに」。「満州に逃げた」。「シベリアで」。 1943年4月13日、ドイツのラジオ。「カティンの森で4000人の墓」。国際赤十字に調査を求めた。 ソ連。「ドイツの挑発。1941年にドイツが殺した」。 4月25日、ソ連が亡命政府と断交。 イギリス。チャーチルは知っていた。「ボリシェヴィキは残酷だ」。黙った。「同盟者だ」。 アメリカ。ローズヴェルトは報告を握りつぶした。 1944年、ソ連の「ブルデンコ委員会」。「ドイツが1941年に」。 1946年、ニュルンベルク。ソ連がドイツの罪状に入れようとした。証拠が弱く、判決から落ちた。 1951年、アメリカ議会の委員会。「ソ連が」。 ポーランド人民共和国。「カティンについては話すな」。 1980年代、連帯。「カティン」。 1990年4月13日、ゴルバチョフ。「NKVDが」。文書を渡した。 1992年、エリツィン。ベリヤの覚書。スターリンの署名。 2010年4月7日、プーチンとトゥスクがカティンで。 4月10日、カチンスキ大統領の機がスモレンスクで落ちた。96人。 「カティンの呪い」。 2010年11月、ロシア議会。「スターリンとその側近の命令で」。 それから、逆に戻っている。 ワイダの映画『カティンの森』。2007年。父は殺された将校の一人。 「殺したのはドイツだ」と、いまもロシアの一部は言う。 2万2000人の名前は、全部分かっている。

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