概要
チェコスロヴァキアのズデーテンを、当のチェコ抜きで英仏がヒトラーに渡した。チェンバレンは紙を振って「我々の時代の平和」。6か月後、ヒトラーはプラハに入った。「宥和」は、それ以来、譲歩の悪い名前になった。
場所
48.14°N 11.58°E · ドイツ
関わった人(3)
ヒトラーAD1889年4月20日–AD1945年4月30日 · 要求ネヴィル・チェンバレンAD1869年3月18日–AD1940年11月9日 · 譲ったベニート・ムッソリーニAD1883年7月29日–AD1945年4月28日 · 仲介本文
1938年3月、オーストリア。 ズデーテン。チェコスロヴァキアの西。ドイツ人300万人。ヘンライン。「ドイツへ」。 5月、「五月危機」。チェコが動員。ヒトラーが引いた。怒った。「10月1日までにチェコを潰す」。 9月12日、ニュルンベルク。ヒトラーがズデーテンを「解放する」と。 9月15日、チェンバレン。69歳。初めて飛行機に。ベルヒテスガーデン。「割譲を」。 イギリスとフランスがチェコに「飲め」。ベネシュが飲んだ。 9月22日、ゴーデスベルク。ヒトラーは「もっと。10月1日に軍で入る」。チェンバレンが帰った。「ヒトラーは狂っている」。 9月27日、チェンバレンのラジオ。「遠い国の、我々が何も知らない人々の争いのために、塹壕を掘り、ガスマスクを試すとは、何と恐ろしく、信じがたく、ありえないことか」。 9月28日、ムッソリーニが会談を提案。ヒトラーが受けた。 9月29日、ミュンヘン。総統官邸。ヒトラー、ムッソリーニ、チェンバレン、ダラディエ。チェコの代表は隣の部屋で待たされた。 9月30日、午前1時。 10月1日から10日でズデーテンをドイツに。国際委員会が住民投票を。「保証」。 午前2時、チェコの代表が呼ばれて、伝えられた。 チェンバレンはヒトラーと二人で紙に署名した。「英独は二度と戦わない」。 ヘストン飛行場。紙を振った。「名誉ある平和。我々の時代の平和」。 ダウニング街。「これはドイツからの名誉ある平和だ。我々の時代の平和だと信じる」。 チャーチル。「あなたは戦争と不名誉のどちらかを選べた。不名誉を選び、戦争を得るだろう」。 チェコは要塞と工業の3分の1を失った。 11月、ハンガリーが南を。ポーランドがテシェンを。 1939年3月15日、プラハ。ハーハ大統領がベルリンで気絶した。「保護領」。 3月31日、チェンバレンがポーランドに保証。 9月1日。 「宥和」。アピーズメント。 「チェンバレンは1年を稼いだ。イギリスの空軍が間に合った」。 「チェンバレンは、1938年にチェコの35個師団と要塞を捨てた。1939年に何もないポーランドで戦った」。 「ソ連は1938年、チェコを助ける条約があった。呼ばれなかった。1939年、ヒトラーと組んだ」。 「ミュンヘン」。譲歩の名前。「ミュンヘンの教訓」。スエズ、ベトナム、イラク。「宥和するな」。 「その教訓で、次の戦争が始まった」とも。 ベネシュは1945年にプラハに戻り、1948年に共産党に追われた。 「我々のことを、我々抜きで」。チェコの言葉。 ムニホフ。 チェコ語で「ミュンヘン」は、いまも「裏切り」。