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Event / できごと

柏挙の戦い

Battle of Boju
BC506年
重要度 3

概要

呉王闔閭が孫武と伍子胥を使い、3万で楚の20万を破り、都の郢に入った。伍子胥は父と兄を殺した平王の墓を暴いて屍を300回鞭打った。秦が楚を助けて呉は帰った。『孫子』の著者が実際に戦ったとされる唯一の戦い。

場所

柏挙(麻城)
31.17°N 115.02°E · 中国・湖北省

関わった人(2)

孫武(孫子)軍師伍子胥?–BC484年 · 復讐

本文

呉。太伯の国、とされる。長江の下流。 BC515年、公子光が専諸に魚の腹に剣を隠させて呉王僚を殺した。闔閭。 伍子胥。楚の人。父伍奢と兄伍尚が平王に殺された。宋、鄭を経て、昭関。追われて一晩で髪が白くなった、と『呉越春秋』。漁師が渡してくれた。呉で乞食をした。 孫武。斉の人。兵法13篇を闔閭に見せた。宮女180人で試した。二人の寵姫を隊長にして、笑ったので斬った。王が止めても斬った。「将は軍にあっては君命も受けざる所あり」。 BC512年から、伍子胥の策。「三軍を三つに分けて交代で楚を攻める。楚は疲れる」。6年。 BC506年。 唐と蔡が楚に恨みを持っていた。呉と組んだ。 3万。淮水を遡り、船を捨てて陸へ。漢水の東。 楚の令尹囊瓦、20万。 柏挙。麻城。 闔閭の弟夫概が5000で囊瓦の陣を突いた。「囊瓦は仁でないから兵は死力を尽くさない」。崩れた。 五戦して郢。楚の都。昭王が逃げた。 伍子胥は平王の墓を掘って屍を300回鞭打った。申包胥が「天道はあるのか」と使者に。「日暮れて道遠し。だから私は道に逆らう」。倒行逆施。 申包胥は秦の宮廷で7日7夜泣いた。秦の哀公が「楚は無道だが、こういう臣がいるなら」。500乗。 越が呉の留守を襲った。夫概が帰って王を名乗った。闔閭が帰った。楚は戻った。 BC496年、闔閭は越の句践に敗れて死んだ。夫差。BC494年、会稽。句践を許した。伍子胥は反対した。 BC484年、夫差が伍子胥に剣を送った。「私の目を東門に掛けよ。越が入るのを見る」。 BC473年、越が入った。夫差は「子胥に合わせる顔がない」と顔を覆って死んだ。

孫武はどこへ行ったか。柏挙の後、記録にない。 『孫子』13篇。「兵は詭道なり」。「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」。「戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり」。 柏挙はその著者が戦ったとされる唯一の戦い。孫武が実在したか、『孫子』が孫臏のものか、長く争われ、1972年に銀雀山から『孫子兵法』と『孫臏兵法』が別々に出て、二人いたことになった。 「屍を鞭打つ」。日本語にもなった。伍子胥の話から。 呉越同舟。臥薪嘗胆。すべてこの30年の話。

同じ時代のできごと

カンビュセスのエジプト征服BC525年『孫子』の兵法BC512年頃ダレイオスのスキタイ遠征BC513年タルクィニウスの追放(王政の廃止)BC509年(伝承)共和政ローマの成立BC509年(伝承)クレイステネスの改革BC508年ノク文化の製鉄BC500年イオニアの反乱BC499年