概要
唐の都を写して碁盤の目に道を通し、宮を中央に置いた。日本で最初の、計画された都。持統天皇が移り、16年使われ、平城京に移って捨てられた。田の下に、その道の跡が埋まっている。
場所
藤原京
34.50°N 135.81°E · 奈良県橿原市
34.50°N 135.81°E · 奈良県橿原市
関わった人(1)
持統天皇AD645年–AD703年 · 天皇本文
天武天皇は676年に「新城」の計画を始め、 682年に「新城に幸す」とあり、 684年に「京師を巡行して宮室の地を定む」とある。 686年に死んだ。 持統が引き継ぎ、 690年に「藤原の宮地を観る」、 691年に地鎮祭、 694年12月、遷った。
大和三山の真ん中。 東に香具山、西に畝傍山、北に耳成山。 「大和には群山あれど」の香具山。
条坊制。 碁盤の目の道路。 中央に宮、その周りに官庁と貴族の家と市。 『周礼』の理想の都の形で、 唐の長安はそうなっていないが、藤原京はそうなっている。 宮が真ん中にある都は、中国の都にもない。 北魏の洛陽か、隋の大興城を伝聞で写した、と考えられている。
大きさは長く、東西2.1キロ×南北3.2キロと考えられていた。 1990年代の発掘で、京の外と思われていた所から道路が出て、 5.3キロ四方、平城京より大きかったと分かった。 大藤原京。
宮の中に、初めて瓦葺きの礎石建ちの大極殿が建った。 朝堂院の前で、持統が官人の朝賀を受けた。 701年、文武天皇の大宝律令が、ここで施行された。 「日本」という国号と「天皇」という称号が 法の上で定まったのも、ここだとされる。
710年、平城京へ移った。 16年。 理由は分からない。 低地で排水が悪く、汚物が流れず、 唐の長安を知って見劣りした、とも言われる。 宮の建物は解体して平城京へ運ばれ、 都は田になった。 1934年から発掘が続いている。 大極殿の跡に、いまは土壇と桜が並んでいる。