概要
職人の出の思想家が、身内をひいきする儒家を退け、すべての人を等しく愛せと説いた。攻める戦争を否定し、守る技術を弟子に教え、実際に城を守りに出向いた。秦のあと、その学派は消えた。
場所
曲阜
35.60°N 116.99°E · 中国・山東省
35.60°N 116.99°E · 中国・山東省
関わった人(1)
墨子BC470年頃–BC390年頃 · 思想家本文
墨翟。魯の人とも宋の人とも言う。 職人の出で、儒家に学んでから、その礼と音楽が浪費だとして離れた。
兼愛。すべての人を自分の親のように等しく愛せ。 非攻。攻める戦争は最大の不義であり、人を一人殺せば死罪なのに、 万人を殺す戦争が義とされるのはおかしい。 節用、節葬、非楽。 天志。天は人を等しく愛するから、人もそうせよ。
楚が宋を攻めようとしたとき、 墨子は10日10夜歩いて楚に行き、 攻城の名人公輸盤と机の上で模擬戦をして九度勝った。 「私の弟子300人がすでに宋の城にいる」と言い、楚は攻撃をやめた。 『墨子』の「公輸」篇の話になる。
弟子は鉅子を長とする規律の集団で、 城を守る技術を持ち、雇われて守った。 戦国の間は「天下の言は楊朱か墨翟に帰す」と孟子が嘆くほど広まった。 漢になって儒家が国教になると、消えた。 清の末に読み直され、キリスト教の「愛」と比べられた。