概要
軍と一緒に160人あまりの学者が上陸した。軍事的には失敗したが、測り、写し、分類した成果は『エジプト誌』全24巻になる。東洋を研究することと支配することが、ここで結びついた。
場所
カイロ
30.04°N 31.24°E · エジプト
30.04°N 31.24°E · エジプト
関わった人(1)
ナポレオン・ボナパルトAD1769年8月15日–AD1821年5月5日 · 率いた本文
1798年5月、トゥーロンから400隻が出た。 兵は3万4000人。 それと別に、数学者、天文学者、化学者、東洋学者、画家が160人あまり乗っていた。
目的はイギリスとインドを結ぶ道を断つことだった。 ピラミッドの戦いでマムルーク軍を破ってカイロに入ったが、 アブキール湾で艦隊がネルソンに焼かれ、退路を失う。 ナポレオンは1799年に少数の側近だけを連れて帰り、そのままクーデターで権力を握った。 残された軍は1801年に降伏する。
軍事的には失敗した。
学者たちは残って測り続けた。 神殿を実測し、動植物を分類し、運河の跡を調べた。 成果は『エジプト誌』全24巻になり、20年かけて刊行された。 ロゼッタ・ストーンが見つかったのもこの遠征になる。
『オリエンタリズム』は、ここを近代オリエンタリズムの出発点に置いた。 知ることと取ることが、同じ一つの事業として行われた最初の例として。
出典(1)
エドワード・W・サイード(今沢紀子 訳) 『オリエンタリズム』第1章 オリエンタリズムの領域(近代オリエンタリズムの出発点)