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Event / できごと

フォティオスの分裂

Photian schism
AD867年
重要度 3

概要

総主教フォティオスが教皇ニコラウス1世を破門し、教皇はその前にフォティオスを破門していた。ブルガリアをどちらの教会に置くか、信条に「子からも」を入れるか。1054年の分裂の、前の分裂。

場所

コンスタンティノープル
41.01°N 28.98°E · トルコ・イスタンブール

関わった人(1)

フォティオスAD810年頃–AD893年頃 · 総主教

本文

858年、総主教イグナティオスが皇帝ミカエル3世の叔父バルダスと争い、 退位させられた。 バルダスは俗人の学者フォティオスを選んだ。 6日で、読師、副助祭、助祭、司祭、司教、総主教。

イグナティオスの側はローマに訴えた。 教皇ニコラウス1世は使節を送り、 使節はフォティオスを認め、 教皇は使節を否認して、 863年、ローマの教会会議でフォティオスを罷免した。 フォティオスは無視した。

ブルガリア。 864年にボリスが改宗した。 コンスタンティノープルから司祭が来た。 ボリスは自分の総主教が欲しくて、 866年、ローマに聞いた。 ニコラウスは106の答えを送り、ラテン人の司祭を送った。 フォティオスは怒った。

867年、コンスタンティノープルの教会会議。 ローマの教会が信条に「子からも」(フィリオクェ)を加えたのは異端、 土曜に断食するのも、司祭の独身も、堅信を司教に限るのも誤り。 教皇ニコラウスを破門し、廃位を宣言した。 東方の教会が、教皇を廃位した。

同じ年、ミカエル3世が殺され、 バシレイオス1世が皇帝になり、 フォティオスを退けてイグナティオスを戻した。 869年の会議でフォティオスは断罪された。 ローマは第八回公会議と数える。 877年、イグナティオスが死に、 フォティオスがまた総主教になった。 879年の会議で名誉が戻され、 ローマも認めた。 正教会はこちらを第八回と数える。 886年、レオン6世に退けられ、修道院で死んだ。

『ビブリオテカ』、あるいは『ミュリオビブロン』。 280の書物の要約。 弟に宛てて、ペルシアへの使節に行く前に書いた、と序文にある。 クテシアス、ディオドロス、アッリアノス、 失われた歴史書と小説。 古代の本の多くは、ここにしか残っていない。

「フィリオクェ」と「教皇の首位」。 1054年に東西が分かれるとき、 争点は867年と同じだった。

同じ時代のできごと

ウシュマルとプウク様式AD8〜10世紀プランバナンの造営AD856年頃藤原良房の摂政AD858年ルーシの成立AD862年ノヴゴロドのルーシAD862年スラヴ語への伝道AD863年ブルガリアの改宗AD864年大異教軍のイングランド上陸AD865年