概要
六鎮の乱のあと、鮮卑の兵を握った高歓が洛陽の孝武帝を追い、皇帝は関中の宇文泰の所へ逃げて毒殺された。高歓は鄴で東魏を、宇文泰は長安で西魏を立てた。150年の北魏が二つに。東は北斉、西は北周になり、北周が北斉を滅ぼし、隋がその北周を継いだ。
場所
34.62°N 112.45°E · 中国・河南省
関わった人(2)
高歓AD496年–AD547年 · 東宇文泰AD507年–AD556年 · 西本文
六鎮。北魏が柔然を防ぐために置いた北の砦。沃野、懐朔、武川、撫冥、柔玄、懐荒。 孝文帝が洛陽に移り、鮮卑が漢人になり、六鎮の兵は「見捨てられた」。 523年、六鎮の乱。 528年、爾朱栄。河陰。霊太后と幼帝を黄河に沈め、公卿2000人を殺した。 530年、孝荘帝が爾朱栄を殺した。爾朱兆が孝荘帝を殺した。 高歓。懐朔鎮。爾朱栄の部下。 531年、信都。六鎮の兵20万。爾朱氏に背いた。 532年、韓陵。爾朱氏を破った。 孝武帝。元脩。高歓が立てた。 「高歓は晋陽にいて、洛陽を遠隔で」。 534年、孝武帝が高歓に背いて、関中の宇文泰の所へ。 宇文泰。武川鎮。賀抜岳の部下。賀抜岳が殺されて、その兵を継いだ。 「皇帝が来た」。 高歓は元善見を立てた。11歳。鄴へ。東魏。 宇文泰は、孝武帝が従妹と通じているのを口実に、閏12月に毒殺した。元宝炬を立てた。長安。西魏。 535年。 二つの魏。両方が「魏」。 東は富み、兵が多い。西は貧しく、兵が少ない。 537年、沙苑。宇文泰が1万で高歓の20万を破った。 538年、河橋。543年、邙山。546年、玉壁。高歓が50日囲んで取れず、病んで死んだ。 547年。 550年、高洋が北斉。 556年、宇文泰が死んだ。557年、宇文覚が北周。 577年、北周が北斉を滅ぼした。 581年、楊堅が北周を隋に。 「西が勝った」。 「府兵制」。宇文泰。兵を農民から。土地を与えて、兵にする。隋と唐の軍の型。 「関隴集団」。武川鎮の人たち。宇文、独孤、楊、李。隋の楊堅も唐の李淵も、武川鎮の家。 「一つの村の人たちが、300年、中国を治めた」。陳寅恪。 六鎮の乱から。 「捨てられた兵が、国を作った」。