概要
大内義隆を殺して大内の実権を取った陶晴賢2万を、毛利元就4000が厳島に誘い込み、嵐の夜に裏から上陸して朝に襲った。狭い島で大軍は動けず、晴賢は自害した。毛利は大内の領国を取り、中国地方10か国。「謀多きは勝ち、少なきは負ける」。
場所
厳島
34.30°N 132.32°E · 広島県廿日市市
34.30°N 132.32°E · 広島県廿日市市
関わった人(1)
毛利元就AD1497年4月16日–AD1571年7月6日 · 誘い込んだ本文
大内義隆は周防・長門・安芸・石見・豊前・筑前の守護で、山口に西の京を作り、ザビエルに布教を許した人。1551年、家臣の陶隆房(晴賢)が反乱して、義隆は大寧寺で自害した。晴賢は大内の一族を当主に立てて、実権を取った。
毛利元就は安芸の小領主で、大内の下にいた。晴賢に初めは従い、1554年、離れた。厳島の宮尾城を築いて、兵を置いた。晴賢の側にわざと偽の情報を流し、「宮尾城は弱い、毛利の家臣の桂元澄が内応する」と思わせた、と伝える。
1555年9月末、晴賢は2万(『陰徳太平記』は3万)で厳島に渡って宮尾城を囲んだ。島は狭い。大軍が展開できない。元就は4000。村上水軍(能島、来島)に頼んで、船を得た。
9月30日(旧暦)、嵐。元就は本隊で島の裏の包ヶ浦に上陸し、次男吉川元春が山を越えて背後へ、三男小早川隆景が水軍で正面へ。翌10月1日の朝、三方から。晴賢の軍は海へ追い詰められ、船は毛利の水軍が沈めた。晴賢は逃げて、大江浦で自害した。35歳。首は桜尾城で元就が見た。
毛利は大内の領国を取った。1557年、大内義長(晴賢が立てた当主、大友宗麟の弟)を長府で自害させ、大内が滅びた。1566年、出雲の尼子を月山富田城で降した。中国地方10か国。
「厳島は神の島だから戦をするな」と元就は言い、戦のあと、島の血を洗い、社殿を清めた、と言う。