概要
高句麗が漢江流域を奪い、百済は都を南へ移した。この敗北のあと、百済は倭との関係を深める。半島と日本列島の往来が濃くなる時期になる。
場所
漢城(ソウル)
37.57°N 126.98°E · 大韓民国
37.57°N 126.98°E · 大韓民国
本文
475年、高句麗の3万が漢城を囲んだ。
7日で落ちた。
蓋鹵王が捕らえられ、殺された。
漢江の流域を失う。
百済は、南の熊津(公州)へ都を移した。
そこも狭く、のちに泗沘(扶余)へ移る。
この敗北のあと、百済は外に頼った。
倭との関係が濃くなる。
王族を人質として送り、 学者と技術者と仏教を送った。
七支刀、そして538年の仏教伝来。
倭は兵と物を送った。
日本の古代の記録に百済が繰り返し出てくるのは、 この150年の関係になる。
660年、百済が唐と新羅に滅ぼされたとき、 倭は2万7千を送って白村江で敗れた。
そのあと、亡命した百済人が 日本の律令と山城を作る側に回る。