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Event / できごと

孝文帝の洛陽遷都と漢化

Emperor Xiaowen moves the capital to Luoyang
AD494年
重要度 4

概要

鮮卑の皇帝が、南征と称して軍を出し、洛陽で「帰らない」と言って都を移した。鮮卑語を禁じ、鮮卑の姓を漢姓に変え、自分も元氏になった。北方の民族が中国になっていく形の、いちばん徹底した例。

場所

洛陽
34.62°N 112.45°E · 中国・河南省

関わった人(1)

孝文帝AD467年–AD499年 · 皇帝

本文

平城は北の草原に近すぎ、 寒く、食糧を南から運ばねばならず、 中国を治めるには端にあった。

493年、孝文帝は南斉を攻めると言って30万を出した。 秋の雨の中を行軍して洛陽に着き、 なお南へ行くと言った。 群臣が馬の前に跪いて止めた。 帝は「大軍を出して何もせずに帰れるか。 南征をやめるなら、ここに都を移す」と言った。 群臣は、戦争よりは遷都を選んだ。 最初から、そのつもりだった。

494年、遷都。 495年、朝廷で鮮卑語を禁じた。30歳以上は許す、それ以下は罰する。 鮮卑の服を禁じ、漢の衣冠にした。 496年、鮮卑の姓を漢姓に変えた。 拓跋は元に。 丘穆陵は穆、歩六孤は陸、賀頼は賀、独孤は劉。 鮮卑の八大姓と漢の四大姓(崔・盧・鄭・王)を同格にし、 皇弟たちにその娘を娶らせた。 死んだ者は洛陽に葬り、平城に帰すことを禁じた。 自分は洛陽の人、と戸籍に書かせた。

皇太子の元恂は暑い洛陽を嫌い、平城に逃げようとして、 廃され、殺された。 496年、平城の鮮卑貴族が反乱した。 鎮圧した。

499年、南征の途中で病み、33歳で死んだ。 25年後、北の国境を守る六鎮の鮮卑の兵が、 洛陽の貴族に見捨てられたとして反乱した。 北魏はそれで割れる。 だが、鮮卑という民族は、この改革のあとにほぼ消えた。 隋の楊氏も唐の李氏も、鮮卑と婚姻した家で、 その母たちは独孤氏、竇氏、長孫氏という鮮卑の姓を持っていた。

同じ時代のできごと

マダガスカルへの到達AD5〜8世紀エフタルの侵入5世紀後半百済の漢城陥落AD475年祖沖之の円周率AD480年頃西ローマ帝国の滅亡AD476年テオドリックのイタリア王国AD493年テオドリックのイタリア統治AD493年クローヴィスの改宗AD496年頃(508年説もある)