概要
中央をあえて後退させる両翼包囲でローマ軍を殲滅。ローマ史上最悪の敗北とされ、以後ローマは会戦を避ける持久戦略へ転じた。
場所
カンナエ
41.31°N 16.13°E · イタリア・プッリャ州バルレッタ近郊
41.31°N 16.13°E · イタリア・プッリャ州バルレッタ近郊
関わった人(1)
ハンニバル・バルカBC247年–BC183年(一説にBC181年) · カルタゴ側 · 総指揮本文
ローマは執政官二人が日ごとに指揮を交代する軍を出した。 兵力は史料によって幅があるが、ローマ側がハンニバル側の倍近かったことは どの説も一致している。
ハンニバルは中央に弱い部隊を薄く置き、両翼に精鋭を配した。 ローマの重装歩兵が中央を押すと、中央はわざとへこんでいく。 押し込むほどローマ軍は深く入り、両翼に挟まれる形になった。 最後に騎兵が背後を塞ぎ、包囲が閉じる。
一日で数万が死んだ。以後2000年、包囲殲滅はこの戦いの名で呼ばれ、 19世紀のドイツ参謀本部が教範として研究し、 20世紀の作戦計画にまで影を落としている。
それでもローマは降伏しなかった。ハンニバルの狙いは イタリアの同盟諸都市を離反させることだったが、大半は離れなかった。 戦術で勝ち、戦争で負ける典型として引かれる。
出典(3)
ポリュビオス 『歴史』第3巻 107–117
ティトゥス・リウィウス 『ローマ建国以来の歴史』第22巻 44–49
塩野七生 『ローマ人の物語』II ハンニバル戦記