概要
百済の王が3万で高句麗の平壌を攻め、故国原王を矢で殺した。百済の最盛期。倭に七支刀を贈り、東晋に使いを送り、博士高興に史書を書かせた。その30年後、高句麗の広開土王が仕返しに来る。
場所
39.04°N 125.76°E · 朝鮮民主主義人民共和国
関わった人(1)
近肖古王?–AD375年 · 王本文
百済。漢城。ソウルの南東の風納土城。 近肖古王。346年即位。「肖古王の再来」。前の王家と系統が違い、古い王の名を借りて正統を示したと考える人がいる。
369年、高句麗の故国原王が2万で攻めてきた。雉壌。太子近仇首が破り、5000を捕えた。 371年、冬。王と太子が精兵3万で平壌城を攻めた。故国原王は矢に当たって死んだ。 高句麗の王が戦場で死んだ唯一の例。 故国原王は342年に前燕に都を落とされ、母を人質に取られ、父の遺体を掘り出されていた。不運の王。
372年、東晋。「鎮東将軍、領楽浪太守」。楽浪は313年に高句麗が滅ぼした郡。その太守を百済王が名乗り、東晋が認めた。百済が中国の正史に出た最初。
七支刀。石上神宮。74.9センチ。6本の枝。金の象嵌、61文字。「泰□四年」。泰和なら369年。 「百済王の世子が倭王の旨のために作る」。旨は意向。求めたのか、与えたのか。日本と韓国で読みが逆。錆で読めない字がある。 『日本書紀』は神功52年に「百済が七枝刀を献上した」。120年ずらすと372年。 高句麗に対抗する同盟の印として倭に贈った、と読める。倭と組んだ最初の王。
博士高興。『書記』。「百済は開国以来、文字で記録がなかった。高興を得て初めて書記があった」。残っていない。 『日本書紀』が引く『百済記』がその一部かもしれない。
375年、死んだ。30年。百済の最盛期。馬韓の全部、全羅道まで。 377年、息子がまた平壌を攻めた。取れなかった。 391年、広開土王、18歳。396年、「百済の58城700村を取った。百済王が跪いて永遠に奴客に」。碑にそう刻んだ。 475年、蓋鹵王が斬られて漢城を失った。100年後。熊津へ、泗沘へ、660年へ。