概要
東晋の将軍が三度北へ攻め、一度は長安の郊外まで来た。関中の老人が「王師が来るとは」と泣いた。取れずに帰り、その名声で皇帝を廃し、自分が皇帝になる寸前で死んだ。「男子たるもの、名を後世に流せないなら、悪名でも残せ」。
場所
長安
34.27°N 108.95°E · 中国・陝西省西安
34.27°N 108.95°E · 中国・陝西省西安
関わった人(1)
桓温AD312年–AD373年 · 将軍本文
354年。第一次。前秦。 藍田で破り、灞上、長安の東まで来た。 関中の父老が牛と酒を持って道に。「王師をまた見るとは思わなかった」。老人が泣いた。 王猛が布衣で陣に来て、虱を取りながら天下を語った。 「なぜ関中の豪族は私に来ないのか」。 「あなたは長安まであと数十里で渡らない。彼らはあなたが何をしたいか分からない」。 桓温は黙った。麦を刈るつもりが苻健が先に刈った。帰った。王猛は残って苻堅に仕えた。
356年。第二次。洛陽。姚襄を破って入り、西晋の陵を祭った。帰った。守れなかった。
金城。若い頃植えた柳が十囲に。「木なおかくの如し、人いかんぞ堪えん」。泣いた。
369年。第三次。前燕。5万。枋頭。運河が干上がった。退却。 慕容垂が追った。3万を失った。最大の敗北。
それを恥じて371年、皇帝を廃した。「皇帝は不能で、息子は別の男の」。 簡文帝を立てた。簡文帝は会うたびに泣き、1年で死んだ。 遺詔の「摂政」を王坦之が削った。 373年、新亭に兵を伏せて謝安と王坦之を呼んだ。王坦之は震えた。謝安は「諸侯は四方を守る。明公はなぜ壁の後ろに兵を」。桓温は笑って兵を下げた。 九錫。謝安が文を何度も直させた。7月、死んだ。62歳。九錫は来なかった。
「男児、名を後世に流す能わずんば、また遺臭万年たらん」。 息子桓玄が403年に皇帝を名乗り、翌年劉裕に殺された。劉裕が宋を建てた。 晋書は彼を「叛逆」の巻に入れた。蜀を取り、洛陽に入り、皇帝を廃し、皇帝になれなかった。名も悪名も半分。