概要
武烈天皇に子がなく、大伴金村が越前から応神天皇の五世の孫を迎えた。58歳。樟葉宮で即位し、20年、大和に入れなかった。前の王統との断絶を疑う人がいる。『日本書紀』は辛亥の年に天皇と太子と皇子が同時に死んだ、という百済の記録を引いている。
場所
34.83°N 135.68°E · 大阪府枚方市
関わった人(1)
継体天皇AD450年–AD531年 · 天皇本文
武烈天皇。『日本書紀』は「悪行」を並べた。妊婦の腹を裂いた。子がなかった。506年、死んだ。 大伴金村。「仲哀の五世の孫、倭彦王」を丹波に迎えに行った。兵を見て逃げた。 「応神の五世の孫、男大迹王」。越前三国。 「男大迹は、辞退した。河内馬飼首荒籠が使いを送って、迎えが本当だと伝えた」。 507年2月4日、樟葉宮。河内。淀川。58歳。 手白香皇女。仁賢天皇の娘、武烈の姉。皇后。「前の王統の娘」。 511年、筒城宮。山城。 518年、弟国宮。山城。 526年、磐余玉穂宮。大和。 20年、大和に入れなかった。 「大和の豪族が拒んだ」。 「入ったのでなく、都を移した」。 527年、磐井。 531年2月、死んだ。82歳。 「辛亥の年に、天皇と太子と皇子が、ともに死んだ」。『百済本記』を『日本書紀』が引く。 「辛亥の変」。 安閑、宣化、欽明。 「安閑と宣化は継体の子で、欽明は手白香の子。二つの朝廷が並んだ」。「二朝並立」。 本当かどうか。
「応神五世の孫」。 『上宮記』。「凡牟都和希王(応神)—若野毛二俣王—大郎子(意富々等王)—乎非王—汙斯王(彦主人王)—乎富等大公王(継体)」。 「五世」。 「一世が20年なら100年」。応神は4世紀の末か5世紀の初め。継体は450年生まれ。合う。 「合いすぎる」。 「王朝交替」。水野祐。1952年。「崇神王朝、応神王朝、継体王朝」。 「継体は、越前の豪族が、大和を取った」。 「継体は、本当に応神の子孫だった」。 「近江と越前の豪族の血」。 「息長氏」。 「継体の父は近江の彦主人王、母は越前の振媛」。 今城塚古墳。高槻。6世紀前半。190メートル。埴輪の列。 「継体の陵」と学者は言う。 宮内庁は太田茶臼山古墳を「三嶋藍野陵」に。5世紀の中頃の古墳。合わない。 今城塚は、だから、入れる。 天皇の墓で、中を歩ける唯一。 「応神五世の孫」の墓を、誰でも。