概要
幕府の命で樺太へ。北端まで行って、樺太が島だと確かめた。アイヌの船で海峡を渡り、黒竜江を遡って清の役所に着いた。「間宮海峡」。シーボルトが地図に書いた。ヨーロッパ人はまだ知らなかった。林蔵はシーボルト事件で密告した側になり、嫌われた。
場所
52.00°N 141.50°E · ロシア・サハリン
関わった人(1)
間宮林蔵AD1780年–AD1844年4月13日 · 探検本文
1806年、フヴォストフ。ロシアが樺太と択捉の日本の番所を襲った。 1807年、幕府。 1808年。「樺太は島か、半島か」。 松田伝十郎と間宮林蔵。 4月、宗谷。 伝十郎は西岸、林蔵は東岸。 林蔵は東岸で引き返して、西岸へ。 6月、ラッカ。伝十郎。「対岸が見える。島だ」。 「間宮海峡」は、伝十郎が先に。 7月、帰った。 「もう一度」。 1809年。林蔵、一人。 「アイヌの舟」。 7月、ナニオー。北端の近く。 「海峡を渡って、大陸へ」。 黒竜江。 デレン。清の仮の役所。「満州仮府」。 「サンタン人」。「山丹交易」。 「清の役人に会った。『日本から』」。 「9月、帰った」。 『東韃地方紀行』。『北夷分界余話』。 「村上貞助が、林蔵の話を、書いた。林蔵は字が」。 「樺太は島」。 「間宮海峡」。 「タタール海峡」。ヨーロッパの名。 1832年、シーボルト『日本』。「マミアノセト」。「間宮の瀬戸」。 「ヨーロッパの地図に、日本人の名前が」。 1849年、ネヴェリスコイ。ロシアが「確かめた」。「間宮の40年後」。 「ロシアは、樺太は半島だと思っていた。ラペルーズが」。 1828年、シーボルト事件。 「高橋景保が、伊能図をシーボルトに」。 「林蔵が、シーボルトからの荷を、開けずに、幕府に」。 「密告」。 「景保は獄で死んだ」。 「林蔵は、隠密として、嫌われた」。 「幕府の間諜」。 「浜田藩の密貿易を暴いた」。 1844年。65歳。 「常陸の農民の子が、樺太を回って、清の役所へ」。 「一人で」。 「伊能に測量を習って、蝦夷の地図を」。 「伊能図の蝦夷は、林蔵の測量」。 「彼の海峡は、いま、ロシアとロシアの間」。