概要
道教を国教にした北魏の皇帝が、寺に武器が隠されていたのを口実に、僧を殺し寺を壊し経を焼いた。中国の三武一宗の廃仏の最初。6年後に皇帝が殺され、仏教は戻って、雲岡を掘り始める。
場所
平城
40.09°N 113.29°E · 中国・山西省大同市(北魏の都)
40.09°N 113.29°E · 中国・山西省大同市(北魏の都)
本文
太武帝は道士の寇謙之を信じ、 宰相の崔浩が儒教の側からそれを支えた。 442年に道教の壇に登って符籙を受け、 北魏の皇帝は以後、即位のとき道教の儀式をすることになった。
445年、蓋呉の反乱を鎮めに長安へ行った。 寺に入って、武器が隠されているのを見た。 酒があり、金があり、豪族の財産が預けられ、 女が隠れていた、と『魏書』は書く。 崔浩が勧めた。
446年、詔。 仏像を壊せ、経を焼け、僧を殺せ、 長安の僧は皆殺しにし、全国も同じにせよ。 皇太子が仏教を信じていて、詔を遅らせた。 その間に多くの僧が逃げ、経が隠された。 それでも寺は壊され、僧の多くが殺された。
450年、崔浩が国史を石に刻んで 鮮卑の祖先のことを隠さずに書いたとして、 一族もろとも殺された。 452年、太武帝が宦官に殺された。 孫の文成帝が即位して、その年のうちに仏教を戻した。 460年、雲岡が始まる。
「三武一宗の法難」の最初。 北周の武帝、唐の武宗、後周の世宗と続く。 どれも、寺が金と土地と人を持ちすぎたときに起きた。