概要
安史の乱で唐が弱ったところへ、高原の軍が都に入った。15日で退くが、唐が西域を失う流れはここで決まる。
場所
長安
34.27°N 108.95°E · 中国・陝西省西安
34.27°N 108.95°E · 中国・陝西省西安
本文
安史の乱で、唐の軍は東へ集められていた。
西の守りが空く。
吐蕃はまず隴右と河西を取り、 763年の秋、長安に入った。
皇帝は都を捨てて陝州へ逃げている。
吐蕃は別の皇族を皇帝に立て、年号まで作った。
15日で退く。
長安を保つ気は無く、 略奪して人を連れ去るのが目的だったと見られる。
だが、この15日で流れが決まった。
唐は以後、西域との連絡を失う。
安西・北庭の都護府は本国から切り離されたまま 40年ほど持ちこたえ、8世紀の終わりに消える。
チベット語の文書が敦煌に大量に残っているのは、 このあと敦煌が60年吐蕃のものだったためになる。
唐と吐蕃は821年に和平し、 その条文がラサの石柱に両方の言語で刻まれた。