概要
安禄山に長安を追われた玄宗の一行が、馬嵬で止まった。兵が楊国忠を殺し、貴妃も殺せと言った。玄宗は高力士に命じて、仏堂の前で縊らせた。皇太子はそこで父と別れ、北へ行って即位する。
場所
馬嵬
34.31°N 108.14°E · 中国・陝西省興平
34.31°N 108.14°E · 中国・陝西省興平
関わった人(2)
楊貴妃AD719年–AD756年 · 殺された玄宗AD685年–AD762年 · 皇帝本文
755年12月、安禄山が范陽で挙兵し、 756年6月、潼関が落ちた。 玄宗は6月13日の夜明け前、 楊貴妃と楊国忠と皇太子と、 少数の兵で長安を出た。 蜀へ。 朝、宮殿に来た役人は、皇帝がいないことを知った。
翌14日、馬嵬駅。 長安から100キロ。 兵は疲れ、腹が減っていた。 禁軍の将陳玄礼が、 「楊国忠が反乱を起こした」と兵に言った。 吐蕃の使者が楊国忠に食べ物を求めているところを、 「胡人と謀っている」と叫んだ。 楊国忠は殺され、首が槍に刺された。 その息子と、韓国夫人、秦国夫人も。
兵は駅を囲んで動かなかった。 玄宗が出てきて労った。 陳玄礼。「国忠は死んだ。貴妃が陛下のそばにいては、兵が安心しない」。 高力士。「貴妃に罪はない。だが兵が安心しなければ、陛下も安全でない」。 玄宗は仏堂に貴妃を連れて行かせ、 高力士が縊った。 37歳。 遺体を兵に見せた。 陳玄礼は兜を脱いで謝った。
道端に埋めた。 紫の褥に包んで。 翌年、玄宗が長安に戻り、 密かに改葬させると、 肌は失われて、香嚢だけが残っていた、と『旧唐書』。
皇太子李亨は、馬嵬で父と別れた。 民が道を塞いで「太子を留めよ」と言った。 北へ、霊武へ。 7月、そこで即位した。 玄宗は蜀で、知らせを受けた。 上皇になった。
白居易が50年後に「長恨歌」を書き、 陳鴻が『長恨歌伝』を書き、 楊貴妃は日本に逃げたという伝説が、山口県に墓を作った。