概要
唐の二代目は、宮殿の北門で兄と弟を射殺して皇太子になった。二か月後に父を退位させる。その後の治世が「貞観の治」として理想の政治になったので、この朝のことは薄く書かれた。
場所
長安
34.27°N 108.95°E · 中国・陝西省西安
34.27°N 108.95°E · 中国・陝西省西安
関わった人(1)
唐の太宗AD598年–AD649年 · 殺した側本文
唐の高祖李淵には三人の息子がいた。 長男の李建成が皇太子、 次男の李世民は隋を倒す戦争のほとんどを指揮した、 四男の李元吉は兄の側についた。
世民は洛陽で王世充と竇建徳を同時に破り、 「天策上将」という新しい称号を作ってもらった。 配下に房玄齢、杜如晦、尉遅敬徳、秦叔宝。 皇太子はそれを恐れ、 父は皇太子を替えなかった。
626年7月、突厥が来ると報せがあり、 元吉が出征して世民の将を連れて行くことになった。 世民は「兄が後宮の女と通じている」と父に訴え、 父は翌朝、三人を呼んで問いただすことにした。
7月2日朝、世民は宮城の北門、玄武門に兵を伏せた。 門の守将はすでに買収していた。 建成と元吉が門を入り、異変に気づいて引き返し、 世民が追って、建成を自分で射た。 元吉は世民を弓の弦で絞めようとし、尉遅敬徳が射た。 皇太子の兵2000が門を攻め、 尉遅敬徳が二人の首を城壁の上に掲げて、散らせた。
尉遅敬徳が武装したまま高祖のところへ行き、 高祖は湖に舟を浮かべていた。 「皇太子と斉王が乱を起こし、秦王が誅した。 陛下をお守りに来た」。 高祖はその日のうちに世民を皇太子にし、 二か月後に退位した。 建成と元吉の息子は、全員殺された。
太宗は史官に、自分の実録を見せろと言った。 史官は断り、それから見せた。 太宗は「周公が管・蔡を誅したのと同じだ、隠さず書け」と言った。 そう書かれた。 それから23年の「貞観の治」が、 以後の中国の理想の政治になる。